Even if


 神乃木が倒れたと成歩堂から連絡が入ったのは、御剣が執務室で資料に目を通していた時だった。
 持っていた携帯電話を取り落とさなかったのが不思議なほど、その時の御剣は狼狽していた。
 真っ白に染まる頭では何も考えられなくて、 受話器から聞こえてくる成歩堂の焦ったように御剣を呼ぶ声に返事すら出来ずに。
 やっと頭が正常な判断をしようと動き出した頃には、携帯を持つ手が小刻みに震えていて止めようが無かった。
「すまない、成歩堂。少し驚いただけだ」
 どのくらい返事をしていなかったのか、時間の感覚がなかった御剣には計りようも無いが、 成歩堂は御剣が茫然としている間中ずっと呼びかけていてくれたらしい。 少し震える声で返事をした御剣に「大丈夫か?」と気遣わしげに尋ねた。
「あぁ。病院は、いつものところか?」
「うん、そうだけど。ひとりで来るつもり?」
 尋常でない様子の御剣を心配したのだろう。成歩堂は不安げに聞いてきたが、 自分の今の状態を他人に見られるのは好ましくないし、業務時間中に抜け出すのは一人で十分だ。
 御剣は「大丈夫だ」とだけ成歩堂に答えて、電話を切った。

 一度は駐車場の自分の車に乗り込んだのだが、ひどくなるばかりの手の震えと、少し前から収まらない耳鳴りに、 自分で運転するのはついに断念した。
 検事局の前でタクシーを捕まえて、行き先を告げると御剣はシートにぐったりと頭を預ける。
 膝の上で強く握り締められた両手はそうしていてさえ震えが目に見えるほどで、 そんな風にうろたえる自分に御剣は大きく溜め息を吐いた。

   神乃木の身体は毒に犯されている。それを忘れたことは一瞬だって無かった。
 それは神乃木がいつも着けている派手なゴーグルのせいだったり、色の抜けてしまった髪のせいだったりしたけれど、 それでも神乃木の笑みはいつだって強気で、そのおかげで御剣の不安は最小限に抑えられていたのだが。

 覚悟が足りないのだ、と思う。
 神乃木はよく、「自分は一度死んだ人間だ」と口にする。
 五年間も眠り続けるほどのダメージだったのだからそれは実際その通りだと思う。
 けれど御剣は神乃木がそう口にするたびに否定せずにはいられなかった。まるで御剣といる『今』が、 神乃木の人生にとってただの付属品でしかないと、そう言われている気がして。
 それは間違っていたと、御剣は不意に理解した。
 神乃木は自分に覚悟を、させようとしていたのではないのか。
 どうしたって不安のある身体を一番分かっていたはずの神乃木が、御剣を遺していなくなるいつかのために。

 握り締めた自分の両手を見つめて考え込んでいた御剣は、運転手の無愛想な声で「お客さん?」と声を掛けられて初めて、 車が目的地に着いていることに気付いた。
 慌てて財布を取り出し、うまく動かない手で札を一枚取り出して車を出た。
 お釣を受け取る余裕はなかったが、醜態を晒してしまった口止め料としては安いくらいだろうと思う。 二度と会うことはないと分かってはいても。

 主人の意思など関係なしに震え続ける両手をきつく握り締めながら、成歩堂に聞いた病室を探していると、 御剣を待っていたのか、病室内ではなく廊下に出ていた成歩堂が御剣を見つけて駆け寄ってきた。
「早かったね」
 言下に大丈夫かと滲ませる成歩堂に両手の震えを見せたくなくて、 御剣はさりげなく自分の身体で手を隠しながら神乃木の容態を尋ねた。
「もう落ち着いたよ。ただ、目が覚めないんだ。医者はすぐにでも目を覚ますだろうって言ってたから、 心配はないと思うんだけど……」
「そうか」
「ぼくはいったん事務所に戻るよ。真宵ちゃん一人で残してきちゃったし、心配してると思うから」
 後頼んでいいかな、と少し御剣を窺うように言った成歩堂は、きっと御剣を気遣ってくれたのだろう。
 成歩堂と言えど、あまり見られていたくない状態だったのは確かで、御剣は素直に礼を言った。

 成歩堂が去ってから、御剣は病室の扉をゆっくりと開く。
 個室なのは、神乃木の状態がそれほどまでに良くなかったということか、それともただ単に、 個室しか空いていなかっただけなのか、御剣には判断しかねたが、まわりに人目がないことはありがたかった。
 ベッドに近づくほどに分かる。神乃木の顔色がひどく悪いということ。
 ゴーグルをしていない状態の目元は、いつもよりも窪んでいるように見えた。
 ベッドの真横に立って、「神乃木」と小さく呼びかけるが、反応はない。
 途端に胸をざわつかせる不安が押し寄せてきて御剣は口許を片手で覆った。
 息はしている。心臓も動いている。
 けれどその瞳が開かないことが、御剣の不安を煽っていた。
 もし、このままずっと目を開かなかったら……?  また以前のように眠り続けて、今度こそ戻ってこないかもしれない。
 悪い想像は考えるほどにどんどん広がって行って、御剣は堪えきれずに神乃木の頬に手を伸ばす。
 触れた頬はいつもよりも冷たくて、御剣を落ち着かせてはくれなかった。

「神乃木、起きろ……神乃木、神乃木、かみのぎっ……!」
 何度呼んでも目覚めることのない神乃木に、それでも絶え間なく呼びかける。 最後のほうは、殆ど叫び声に近かったかもしれない。
 ポツリ、と神乃木の頬に水が落ちて初めて、御剣は自分が泣いていることを知った。
 自覚した途端に涙は後から後から溢れてきて、ポツポツと神乃木の頬を濡らす。
 それでも目を開かない神乃木に、御剣は怒りすら覚えた。
 どうして自分が、こんなに必死になって神乃木を起こさなければならないのか。
 そうだ、いつだって目覚めるのは神乃木が先で、御剣を起こすのは神乃木の役目なのに。
 寝ている御剣に口付けて、呼吸を奪って、ひたすら甘く口内をくすぐって。
 起き抜けの乾いた唇にキスをされるのがあまり好きではないと言う御剣に全く取り合わず、 毎朝飽きもせず繰り返されるその行為に、もう何を言う気も失くしていた。
 本当に嫌ならば神乃木よりも先に起きれば良いと、分かっていながらそうしなかった。 その理由に自分で気付けないほど愚かではない。

「神乃木……」
 もう一度だけ静かに名前を呼んで、御剣は腰をかがめて神乃木の顔に自分の顔を近づけていく。
 唇と唇が触れ合う寸前で、御剣は動きを止めた。
 もし、キスをしても目覚めてくれなかったら、その時自分はどうするのだろうと、考えてしまった。


「待ちくたびれた、ぜ」

 そのまま動けずにいた御剣の後頭部がぐいと引き寄せられ、唇が触れ合う。
 深くなる口づけに、御剣は訳が分からないまま流されるしかなかった。
 ひとしきり口内を味わい尽くして、ようやく唇が離されると、目の前の男はニヤリと人の悪い笑みを浮かべた。
「姫を焦らし過ぎて逆に襲われた王子は、ボウヤが初めてだろうぜ」
「…………フン。誰が姫だ」
「クッ……王子の部分は否定しないのかい?」
 からかうようにそう言われて、御剣が苛々と神乃木を睨みつける。
「大体、狸ね入りなど悪趣味にも程がある……!!」
「狸寝入りなんかじゃねぇさ。鼻先に、コーヒーよりももっと愛しい恋人の香りがしたから目が覚めた ……それだけ、だぜ?」
「……っ!」
 悪びれることなく言い放つ神乃木に、御剣は咄嗟に言い返すことが出来なかった。

 その様子に、もう一度ニヤリと笑った神乃木が、ゆっくりと上体を起こす。
 ふと、頬を水がつたったのに気付いて、神乃木はそこに手をやった。
 ゴーグルをしていない状態では極端に低下する視力では、御剣の表情は分からないが。
 それでも伝わる慌てたような雰囲気と、自分の頬を伝う雫に、導き出される答えはひとつだ。
 神乃木はぼやける視界の御剣に腕を伸ばして、自分の腕の中に引き寄せた。

 何も言わずにきつく抱きしめてくる神乃木に、御剣は少し戸惑いながらもその背に腕を回す。
 神乃木の腕の中にいるというだけで湧き上がってくる安心感に、御剣は体の力を抜いた。

「ボウヤより先には死なねぇさ」
 無言で抱きしめあう、二人の沈黙を破ったのは神乃木だった。
 その言葉が現実になる可能性は限りなく低いと、御剣も神乃木も充分過ぎるほど解っていたけれど。
 だからといってまったくの無意味というわけでも、ない。
 御剣が望むなら、一度は失くした命にだってみっともなく縋ってやると、その神乃木の想いの半分でも、 御剣に伝わっていたのなら。

「フン。私より先に死んだら、殺してやる」
 めちゃくちゃな発言をした御剣に軽く笑って、神乃木は御剣の首筋に鼻先を摺り寄せる。
 甘い甘い、御剣の香り。コーヒーとは似ても似つかないが、この香りがあれば、自分はどんな深い眠りからだって (たとえそれが死と名のつくものであったとしても)、絶対に目覚めることができるだろうと、 なんの証拠もない確信が頭を占めた。


end // reset
2008.9.6 up
3232Hitを踏んで頂いたもっこさんのリクエストは、
『ゴドミツで体調を崩したゴドーさんに不安になる御剣をしっとり系で』
でした。
切ない感じを目指して微妙な結果に;
ゴドさんと御剣には幸せになってもらいたいですよねー(逃)
もっこさん、リクエスト有難うございました!!