愛の病
「オレの恋人にならねぇか?」
自分の仕事はどうしたのだと言いたくなるほどに、御剣の執務室ばかりに入り浸っている男が不意に発したセリフに、 御剣は不覚にも鼓動を早くした。
その言葉にというよりは、それを言った神乃木の、初めて見るといっても過言でない真剣な表情に、 心臓をぎゅっと掴まれたような気がして。
イエスかノーか考える余裕は、なかったように思う。それでも思考とは別のところで身体は勝手に動いていた。
何も言えずにただコクリと首を上下に動かした御剣に、返されたのは軽い抱擁。
そしてゆっくりと御剣を解放した神乃木は、その大きな右手を御剣の頭に軽く乗せる。
くしゃりと髪に触れる手のひらが心地よくて、つい目を瞑ってしまっていた御剣は、 離れていったその手が名残惜しくて目で追ってしまう。
そんな御剣に気付いたかどうか、神乃木は口許を緩めて笑うと、 そのままひらりと手を振って御剣の執務室から出て行った。
それが、十日ほど前の出来事。
御剣が仕事に追われて過ぎ去った一度目の週末を挟んで、今日は二度目の土曜日。
時間があるなら出掛けようと、日が暮れてから御剣を連れ出した神乃木は、 例の大きなゴーグルをつけながらも危なげなく運転手をこなしていた。
神乃木に連れられて入ったレストランで早めの夕食を済ませ、店を出ても時間は二十時にならないほどで、 そのまままた乗り込んだ神乃木の車で、少しいたたまれない沈黙。
いつもは何かと話しかけてくるこの男にはめずらしいことだ。
それに居心地の悪さを感じて、御剣は自分が少し緊張しているのだということに気付いた。
不意に、どこか行きたいところは、と聞かれて、特にはないと事実を答えたけれど。 そのままどこに行くとも言わずに車を出す神乃木を眺めて、失望させる返答だっただろうかと少し後悔した。
もしかしたらこのまま帰るのだろうかと、そう思った御剣の予想に反して、 神乃木の運転する車は御剣のあまり見慣れない景色の中へと進んでいった。
市街地を抜けて見晴らしのいい大通りに出る頃には、御剣にも海の香りがはっきりと感じられた。
海岸沿いの道を、少しだけ窓を開けて気持ち良さ気にスピードを上げる神乃木の横顔をしばらく眺めてから、 御剣は首を傾げた。
「どうして、海、なのだ?」
「嫌いかい?」
「嫌いでは、ないが……」
「なら、行こうぜ」
そう言っていつの間にか脇に寄せられた車から降りる。
つられて御剣も車を出ると、横に来ていた神乃木が手を差し出した。
少し躊躇う御剣に、誰も見ちゃいねぇさと促しつつも、結局は神乃木から御剣の手を取って歩き出した。
申し訳程度に立っている街灯の明かりは頼りなくて、足元が覚束ないまま砂浜へと続く階段を下りる御剣とは対照的に、 視界が悪いはずの神乃木は躓くこともなくスタスタと足を進める。
浜におりると神乃木は視線を海へと固定したまま、御剣へと話し掛けた。
「初めてのデートが夜の海なんて、甘すぎたかい?」
「……どうだろうな」
そうは言ってみたが、悪くはないと思った。
夜の海なんて真っ暗なだけかと思っていたが、月明かりと星明りで思っていたよりも明るい。
水平線もしっかり見えるし、波に月の光が反射するさまはそれ自体が星空のようで。
ぼんやりとその光景に見入っていた御剣に、ゆったりとした神乃木の声が聞こえる。
「昔、よく来てたのさ。月が大きな夜は、特別きれいだったと思い出したもんでな。 ボウヤに見せて、どう思うか聞いてみたかったんだが、」
どうだ? と不意にこちらを振り向いて微笑まれて、御剣の心臓がトクンと一度だけ高鳴った。
握られたままの手が急に熱くなった気がして、御剣は少し顔を俯かせながら口を開く。
「きれいだ。……すごく」
またつまらない返答をしてしまったと、少なからず自己嫌悪してしまう御剣に特に気にした様子もなく、 神乃木は「そりゃぁよかったぜ」とニヤリと笑みを返した。
ふたり並んで立ったまま、しばらくその光景をみていた。
隣で神乃木が動く気配を感じてそちらを見遣ると、いつもつけているゴーグルをうっとおしげに外していた。
いきなり晒された素顔に驚いて見つめていると、神乃木がおかしそうに喉を鳴らす音が聞こえてくる。
「クッ……男前に惚れ直したかい?」
「ム……自惚れるにも程があるぞ」
御剣の言葉に白けるでもなく神乃木はそのままククッと笑うと手に持っていたゴーグルを砂浜に放った。
一応精密機器らしいそれに砂が入っても壊れないのだろうかと御剣は少し心配になったが、 神乃木が全く頓着していないふうだったので、大丈夫なのだろうと勝手に納得することにした。
「真っ赤な月なんて気味悪いだけだろう」
ゴーグルを外した理由をそんなふうに語って、神乃木はもう一度海へと視線を戻す。
「見えるのか?」
「まぁ、ぼんやりと、な。昔の記憶とまったく同じにとは、いかねぇさ」
思えば多くを失くした男なのだと、御剣は神乃木の境遇を思って沈黙した。
その男が『今』、望むものが自分だというのは、くすぐったいが確かに嬉しいことだと、 告白された時には深く考える余裕のなかった自分の感情を再確認する。
考え込んでしまった御剣をどう解釈したのか、神乃木は少し苦笑して御剣の顔に手を伸ばした。
「変な言い方しちまったな。本当は、こっちのほうがやりやすいからってだけだぜ」
御剣が言葉の意味を問いかけるよりも早く、神乃木の鼻先が御剣のそれに触れる。 その鼻先が探るような動きで角度を変えて、 そのままゆっくりと唇同士が触れ合う温かな温度に御剣はどうしていいか分からずにぎゅっと目を瞑った。
ただ唇と唇が触れ合っているだけで、どうしてこんな心許ない気持ちになるのか、御剣は混乱する頭で必死に考えて、 ついさっき行き着いた答えと同じ事を思った。
神乃木のことが好きだからだ、と。
ゆっくりと御剣から離れた神乃木は、砂浜に転がっていたゴーグルを拾い上げると、 また御剣の手を引いて海に背を向けて歩き出した。
自宅に戻った御剣は、着替えもしないままにベッドへと倒れこんだ。
あの後、神乃木の車に乗り込んで御剣の自宅へと着くまで、会話はなかったと思う。
もしかしたら神乃木は何か話しかけたのかもしれないが、終始ぼうっとしていた御剣はよく覚えていなかった。
海でのことを思い出して、今更ながらにどくんどくんとうるさく鳴る心臓に閉口する。
目を閉じるとこうなった元凶の男の顔が自然と浮かんできて、さらに事態を悪化させてしまった。
こんな状態で、自分はまともに仕事が出来るのだろうかと、少しだけ不安になる。 検事局では、神乃木と顔を合わせないわけにはいかないというのに……。
知らず、唇に触れてその感触を確かめていた指先が、男の名残を感じてジンと痺れた。
週明け、御剣は自分の悪い想像が的中したことに頭を抱えていた。
今朝、通路ですれ違っただけの神乃木の顔をまともに見ることすら出来なかった。
何か話し掛けようとする神乃木を無理やり遮って走り去った自分を、きっと変に思っているだろう。
恋人なら当たり前のことで、ことさら意識することではないと言い聞かせてみるのだが、ふとした瞬間に、あの時、 目前まで迫った神乃木の顔を思い出してしまうともうダメだ。 顔が一気に熱くなって、心音が自分で聞こえるほどにうるさく鳴って、自分の身体がまるで言うことを聞かない。
自分が色恋に疎いのは自覚しているが、キスごときでこんな状態になってしまうとは予想外だった。
とりあえず、しばらくは神乃木と顔を合わせなくてすむよう手配はしておいたが、 その僅かな時間でなんとか出来るとも思えず、御剣は大きな溜め息を吐くしかなかった。
「おい、これはどういうことだ?」
突然掛けられた声に、執務室の机で途方に暮れていた御剣が顔を上げると、今一番歓迎できない人物が、 ノックもせずにドアを開けて入ってきていた。
御剣は驚きを隠せず……と言うよりは分かりやすく慌てて、机の上の資料をバサバサと床に落としながら、 ガタンと派手な音をたてて立ち上がった。
「なっ……! キサマ、ドアの張り紙を見なかったのか!?」
「だから、これはどういうつもりだと聞いてるんだが?」
御剣とは対照的に落ち着き払った神乃木が手にしている紙をひらひらと揺らす。
A3程もある大きな用紙に、こちらも大きな文字ででかでかと、『神乃木荘龍立ち入り禁止』と書いてある。
今朝出勤して一番に施した「神乃木避け」が、 早くも本人の手によって剥ぎ取られたことに御剣はがっくりと肩を落とした。
「どういうもなにも……、書いてある通りの意味だ」
御剣の返答に肩を疎めて神乃木が一歩を踏み出す。御剣が「来るなっ」と叫ぶのもお構いなしで、 すぐ隣までやってきた神乃木に、混乱した御剣は咄嗟にぎゅっと目を瞑った。
またキスをされるかもしれないと、自意識過剰になっていたことは認めざるをえない。 しばらくしても何も起こらない現実にそっと目を開くと、神乃木は御剣の足元にかがんで、 先程ばらまかれた資料を拾い集めていた。
身体の力を抜いた御剣が、ふう、と大きく息を吐くと、顔を上げた神乃木と目が合う。 ひとりで勝手に意識してしまっていた事実がいたたまれなくて、御剣はフイと視線を外した。
「ボウヤにそんな素振りされたら、傷ついちゃうぜ?」
集めた資料を拾い上げて机にもどしながら、神乃木は苦笑を零してそう言った。
御剣だってしたくてしているわけではないのだ。だがどうしても、神乃木の目をまっすぐ見ることは出来なかった。
何も言えないでいる御剣をどう思ったのか、神乃木は一度御剣から視線を逸らすと、軽い溜め息をひとつ。
それからゆっくりと御剣の肩に手を置いたが、たったそれだけのことで、 ビクリと強ばる御剣の反応に少し驚いたようにその手をどかす。
考え込むような沈黙の後、神乃木から静かに口を開いた。
「やっぱりオレの恋人なんて嫌になっちまったかい?」
その言葉に弾かれたように御剣は顔を上げるが、ゴーグルに遮られて神乃木の表情さえ分からなかった。
けれどその声のトーンはいつもの冗談めいたものではなくて、御剣を焦らせる。
「そうでは、ないのだ……」
やっとのことでそれだけ言って、けれどやはり神乃木の視線を受け止められずに俯く。
「じゃあ、なんなんだ」
神乃木がそれで見逃してくれるはずも無く、追い討ちを掛ける言葉に御剣は途方に暮れた。
自分自身どうして良いか分からないのに、それをうまく人に伝えるなんて事ができるはずもなかった。
「……困るのだよ」 かなりの長さの沈黙の後、御剣が口にしたのはその一言だけだった。
それきりまた黙り込んでしまった御剣に、神乃木は言葉で続きを促すことはせず、少し首を傾げるだけにとどめた。
「一昨日から、あなたの事ばかり思い出してしまう……鬱陶しいほど。仕事も何もできたものではない」
居心地悪そうに視線を泳がせながら御剣がそう言うと、神乃木は口許を歪めて笑う。 あまり性質の良いものではなかった。
「嬉しいこと言ってくれるじゃねぇか。別に困ることじゃねぇだろう? オレのことばかり考えてりゃあいいさ」
神乃木は楽しそうにそう言って、もともとかなり近づいていた御剣との距離をゼロにしようと手を伸ばした。
ゆっくりと御剣の後頭部を撫でた手のひらに、そのまま御剣の頭を引き寄せようと力が込められる。
今度こそキスされる……! と思った瞬間には、もう御剣の身体は動いていた。
――――ドンッ!
手加減なしで突き飛ばされた神乃木は、よろけて壁に肩を打ちつけた。
痛ぇなぁ……、とボヤきながら肩をさする仕草をする。
「……すっ、すまない」
御剣は自分がしたことに自分で驚いているような、混乱しきった顔をしていた。
しばらく俯く御剣を見つめていた神乃木は、御剣にも聞こえるくらいに大きく息を吐き出した。
「アンタの嫌がることはしねぇさ。だが、オレはそういう付き合い方しか知らねぇぜ」
「…………」
「それが嫌なら、やっぱり恋人なんてやめちまおう」
まるでなんでもないことのようにそう言って、神乃木は御剣に背を向けて部屋を出て行こうとする。
引き止めなければならない、と強く思うのに、御剣の喉は何かが張り付いたように声が出てこない。
何を言えば神乃木をとめることが出来るのか、解らない。
神乃木の言うとおりだ。キスも出来ない恋人なんて意味が無い。
だが、それでも――
自分のどこにこんな行動力があったのかと、妙なところで感心してしまいそうになる。
御剣は無言のまま、腕を掴んで振り返らせた神乃木の唇めがけて、ぶつけるように自分のそれを重ねた。
勢いを殺さずにぶつかった唇が軽い痛みを訴えるがそれには構わずに、まだ足りないとばかりに強く押しつけると、 間もなく神乃木の腕が背中に回された。そのまま深くなる口づけに、御剣はもうどうしていいやら分からずに、 神乃木に主導権を渡してぎゅうっと目を瞑った。
固くなってしまった御剣をあやすように顎の下をくすぐられる。 猫じゃあるまいし、そんなことをされてリラックスできるわけもなくて、御剣は意識的に身体から力を抜こうと努力した。
やがて御剣の口内を隅々まで愛撫した神乃木が、最後にちゅ、と小さな音をたてて離れると、 それまで必死に胸元にしがみついていた御剣はその場に座りこんでしまう。
先程とは逆に、身体にうまく力を入れることが出来なくて、 立ち上がれない御剣に視線を合わせるように神乃木もしゃがみこむと、ニヤリと口許を歪めて笑った。
「引き止められなかったら、どうしようかと思ったぜ」
「なっ……キサマ、わざとか!?」
「怒るなよ。オレだって少しは傷ついたんだ」
神乃木の顔には人をからかうような笑みはもう無くて、きっとそれが本心なのだと分かる。
自分の行動で神乃木が傷つくなんて思わなかった。 だから先程背を向けられた時も、気分を害したとは思っても傷ついているなんて考え付かなかったのだが。
「ムぅ……すまない。その、決して、嫌なわけではないのだ。……ただ、どうして良いか分からないのだよ」
そう言った御剣の顔は、言い訳する子供そのものだ。
そんな御剣に、神乃木はおかしそうに喉を鳴らして笑う。 その姿は心底楽しそうで、もしかしたらこの男は自分で遊んでいるだけなんじゃないかとさえ思ってしまう。
「嫌じゃないなら、良かったかい?」
「ム……! またキサマは、そうやって私をからかって、」
「からかってる訳じゃねぇさ。良かったならまたしてやるし、悪かったならもうしない」
まるで御剣の逃げ場を失くすような言い方。
そんなふうに言われたら、悪かったなんて絶対に言えないではないか。
卑怯だぞ、と怒鳴って終わりにしてしまいたかったが、そんなことで神乃木が引くとは思えなかったし、 御剣だって大人なのだ。ここは逃げずに大人の余裕で切り返してやる、と御剣は神乃木を睨みつけた。
「…………悪くは、なかった」
半分逃げたようなその言葉が、御剣にとっては精一杯の大人の余裕だった。
神乃木はまたククッと笑って、御剣の頭に手のひらを置いた。
「ギリギリ合格点、ってところだろうぜ」
「き、キサマに、」
何か反論しようとした御剣の言葉を遮るように、しゃがんだ姿勢のまま頭を抱き寄せられて、御剣は言葉を飲み込んだ。
大きな手のひらで頭を包み込まれて、言いようのない安心感が身体を支配する。
うっとりと目を瞑りそうになった御剣の耳を、甘く響く低い声がくすぐった。
「どうしたら良いかなんて簡単だろう? オレのコトを、もっと好きになればいいのさ」
はたしてそういう問題だっただろうかと、御剣は神乃木に身体を預けながらも深く考え込んでしまった。
end // reset
2008.9.19 up
3500Hit,坂田さまのリクは、
「恋人同士ということを突然意識してしまって、ひとり空回りする御剣と、
そんな御剣をからかいつつも、ちゃっかり美味しく頂くゴドー」
でした!
からかうと言うより御剣を丸め込むゴドさんて感じです……(汗)
坂田さま、リクエストありがとうございました!
3500Hit,坂田さまのリクは、
「恋人同士ということを突然意識してしまって、ひとり空回りする御剣と、
そんな御剣をからかいつつも、ちゃっかり美味しく頂くゴドー」
でした!
からかうと言うより御剣を丸め込むゴドさんて感じです……(汗)
坂田さま、リクエストありがとうございました!