指先の祈り
よく晴れた昼下がり、ゴドーはいつもと同じようにコーヒーカップを手に、ゆるりとソファに座っていた。
差し迫った案件もなく、来客もない、言葉にするならただ一言、『暇』で済ませられるひと時。
けれどこの事務所の主である成歩堂は、時間のある時に、と大掃除を始めていた。
助手が里帰りしている今、ここにいるのはゴドーと成歩堂だけで、 雇い主のほうだけがせっせと働いているさまはいかにもおかしい。
成歩堂にも少しはその自覚があるのか、少しは手伝ってくださいよ、と何度か声がかかったが、 ゴドーはそのたびのらりくらりと逃げをうった。
掃除がしたくないわけでもないが、気分じゃない。
天気もいいし、暖かいし、コーヒーは美味いし、ゆっくりしろと言われているようなものなのだ。
そういえばあの生真面目な青年も、こんな冬のやわらかな日差しがお気に入りだったな、と、 今は厳しい顔で仕事をしているだろう恋人を思い浮かべれば自然と口元が緩んだ。
たまの休日、特にすることがないと必ず本を読みふける彼が、居心地のよい柔らかなソファに座ることなく、 クッションひとつをたずさえて陽だまりに陣取る姿は、少々意外ではあったが、好ましいものだった。
太陽の動きにあわせて、じりじりと少しずつ床を移動するさまが猫のようで、 思わず笑ってしまったゴドーを睨んだ瞳すら機嫌が良さそうに見えた。
好きな人が好きなものを知るのは、嬉しい。
そしてそれを通じて、ここにはいない大切な人を、少しでも感じることができることを、幸せだと思った。
しばらくして、働き者の雇い主がついに掃除を放り出してゴドーの向かいに腰を降ろした。
「ほんと、平和ですねー……」
『平和』ではなく『暇』の間違いだろうと、些細な違いにおかしさが込み上げる。
意地悪く言ってやっても良かったが、気分が良いので喉を鳴らして笑うだけにとどめた。
それだけでも、意外に敏い彼は気がついたようで、不満げな視線を寄越してきたが。
あまり機嫌を損ねるのも良くない、と、ゴドーはコーヒーカップを持って立ち上がった。
労いの一杯を入れてやるくらいはしてもいいだろう。ちょうど自分のカップも空になりそうだったところでもある。
「うわっ。これ、そこの駅だよ。帰り、動いてないだろうなぁ」
ゴドーが給湯室でコーヒーを入れていると、テレビをつけたらしい成歩堂の独り言が聞こえてきた。
内容が気になって、まだドリップ途中のコーヒーメーカーをその場に放置して部屋に戻ると、画面には見覚えのある駅と、 盛大に灰色の煙をまき散らし、線路に横たわる電車の車両が上空から映されていた。
「どうしたんだ?」
「いや、それがわからないらしくて。爆発事故らしいんですけど、テロなのかただの事故なのか……」
「テロ……ね。物騒だな」
ごく身近な場所で起きていることのはずなのに、ゴドーにも成歩堂にもあまり緊張感がないのは、 画面に映し出される光景があまりに非現実的過ぎて実感もなにもないからだろう。
それでも興味を失いきれずに画面を見つめている成歩堂を置いて、コーヒーの傍に戻ろうとしたゴドーを、 今度は慌ただしい足音が引き留めた。
その足音の主は迷うことなく事務所の扉の前までやってくると、 ノックもなしにその扉をほとんど叩きつけるように押しあけた。
「アンタ!! 今すぐ御剣検事に電話するッス!!」
「い、イトノコさん!?」
姿をあらわしたその人は、成歩堂に大股で近付くと、殺人犯でも追い詰めたような形相で詰め寄った。
成歩堂は一体なにを言われているのか分からず、完全に混乱している。
「ちょ、イトノコさん、なんだって言うんですか!?」
「いいから、さっさと携帯を出すッス!!」
ついには成歩堂の上着のポケットを無理やりまさぐり始める。
「ご、ゴドーさんッ! 見てないで助けて……ッ」
少し面白い光景だったから、もう少し見ていようかと思っていたゴドーは、 成歩堂に言われて仕方なく糸鋸を引き剥がした。
ところが、糸鋸はゴドーを見つけると、今度はゴドーの服をまさぐり始めたのだった。
「アンタでもかまわないッス! 早く携帯を寄こすッス!」
ゴドーは一瞬だけ、面食らったように動きを止めた……が、 一瞬後には右手に持っていたコーヒーカップを糸鋸の頭の上で逆さにしていた。
「まぁ、落ち着きな」
「う……すまねッス」
入れられてから時間の経ったそれは温まっていたし、量だって少なくなっていたのだけれど、 糸鋸の頭を冷えさせるには十分だったようだ。
「で、どうしたんですか?」
コーヒーを頭から被った糸鋸に手近にあったタオルを差し出しながら、成歩堂が面倒臭げに尋ねる。
ゴドーは少し離れたところに立って聞いていたが、あまりいい予感はしなかった。
「み、御剣検事がッ! 死んじゃったかもしれないッス!」
「はぁッ!?」
驚く成歩堂とは対照的に、ゴドーは黙ったままだった。
「いきなり何を言い出すんですか。どうして……」
「その、爆発事故! その電車に、御剣検事が乗ってるはずっス!」
糸鋸が指さしたテレビの画面には、先ほどと同じ、煙をあげる車両が映し出されていた。
とっさに言葉を失った成歩堂は、まるで助けを求めるようにゴドーを見た。
ゴドーは先ほどと変わらず、静かに画面を見つめていた。その視線をゆっくりと糸鋸に合わせると、 あくまで静かに、口を開いた。
「なぜ、アレに乗っていると?」
「さっき、あの駅まで御剣検事を送って行ったところだったッス。間違いなく、あの電車に乗る予定だったッス」
「……で、アンタはなんでココに?」
「車のラジオでこの爆発のことを知って、御剣検事に電話しようと思ったらッ! け、携帯をどこかに置いてきたみたいで……!」
「それで電話を借りに来たわけか?」
「ここが一番近かったッス!」
「じゃあ、ボウヤが電話に出れば問題ないわけだな」
あくまで冷静さを失わないゴドーを見ながらも、成歩堂は嫌な汗が背中をつたうのを感じた。
ゴドーが自分の携帯を取り出して、御剣に電話を掛けている間も、 成歩堂と糸鋸は石になってしまったかのように動かなかった。
しばらく携帯を耳にあてていたゴドーが、その右手を降ろす。
「……電源が、入っていないそうだ」
三人の間に沈黙が落ちる。
三人が三人とも、うるさく鳴るテレビの画面を呆然と見詰めていた。
飽きもせず、画面は同じような映像を繰り返し流していた。
この世界の全てを覆い尽くそうとするかのように立ち上る灰色の煙は、まるで非力な人間を嘲笑しているように見えた。
* * *
何をするべきか考えろ。
立ちつくすゴドーの頭の中で声がした。
分かっている。
いや、分からないのだ。
分からないことが、まだ多すぎる。
状況を確認するべきだ。御剣がどこへ行こうとしていたのか、 訪問先に連絡を入れれば安否の確認がとれるのではないか。
するべきことならいくらだって思いつく。
何より、こんなところで突っ立っているのが一番時間の無駄だ。
何をするべきか、そんなことを考えるよりも、現場に走ったほうがいいのではないか。
けれど、身体が動かない。
ともすれば、ばらばらになってしまいそうな自分自身を、必死に繋ぐことしか、できなかった。
テレビ画面は駅前の状況を映し出している。
駅から次々と運び出される怪我人や、消火活動を行う消防。オレンジの服をきたレスキューも、 慌ただしく動き回っていた。
重傷者も、死者もいるようだが、人数は把握できていないようだった。
名前など、出てくるはずもないのに、ゴドーは画面から目を離せずにいた。
「ゴドーさん……御剣、まさか本当にあそこに……?」
「…………」
誰にも答えられない問いを投げかけてくる成歩堂は、表情を無くしていた。
成歩堂だけではない、糸鋸も、きっと自分だって同じ顔をしているんだろうと思った。
冷静になれ。
ゴドーは今度は意識して自分に言い聞かせた。
大丈夫だ、我を忘れたりしてはいけない。
大丈夫、まだ、自分は冷静だ。するべきことだって分かっている。
けれど、覚えのある感覚が、身の内で警鐘を鳴らしていることに、ゴドーは気付いていた。
(そうだ、オレは知っている)
幸福が、唐突に絶望へと変わる瞬間を。
大切なものが目の前から消えるとき、何もできない己の無力を。
どうすればいい? オレには何も出来ない。じゃあ、神にでも祈るのか? ばかばかしい、 今まで神なんてヤツが何をしてくれた? いつだって、オレの祈りは裏目に出るじゃねぇか。 そうじゃなくて、自分で動くんだ。だから何を? オレには何も出来ないのに。考えなければ。 違う、考えている時間があったらもっと――
「……ゴドーさん!」
成歩堂の声に俯いていた顔をあげたゴドーは、ゆっくりと声の主を見つめ返した。
「聞いてましたか? とにかく駅に行ってみましょう」
「……あぁ、そうだな……」
そう答えたものの、ゴドーは立ち尽くしたままだ。
すぐにでも事務所を出ようとしている成歩堂は、声を掛けても動こうとしないゴドーを怪しむように見つめた。
「ゴドーさん? 大丈夫ですか……?」
「……っ!」
ゴドーの上体がぐらりと揺らぐ。
成歩堂は慌てて駆け寄ったが、何とか倒れずに体勢を整えたゴドーに片手で制されてしまった。
「少し眩暈がしただけだ。……行くんだろう?」
「でも……」
成歩堂が躊躇ったのは、大きなゴーグルをつけていてさえ分かるほど、ゴドーの顔色が悪かったからだ。
もともと丈夫な身体とは言えない人なのだし、あまり無理はさせられない。
それに。
「オレは大丈夫だ」
「……大丈夫じゃないでしょう。……その手」
身体の両脇で色を失うほど強く握られた両手。
それは、震えを抑えるためじゃないのか。
「クッ……変に敏いヤツはめんどくせぇな」
「……ここで、待ってて下さい。すぐに連絡入れますから」
労わる口調でそんなことを言って、成歩堂はコートを羽織った。
ゴドーはその背を見つめて、舌打ちをひとつ。
成歩堂に対してではなく、自分に。
成歩堂に言われなくとも、身体がもう自由には動かない。
分かっている。はるか昔に飲んだ毒のせいなんかじゃない。
これは、失うことを恐れる心の弱さだ。
成歩堂と糸鋸が事務所の出口に向かい、扉に手をかけようとした時だった。
「見つけたぞ糸鋸刑事!」
その扉が、外側から開かれた。
「みッ、御剣検事!!」
そこに立っていたのは渦中の人、御剣怜侍だった。
御剣は呆然と見詰める三つの視線を気にすることもなく、まっすぐに糸鋸に近づくと、薄汚れたコートの襟元を引っ張り、 そこから何かを取り出した。
「メイから発信機を借りておいてよかった。キサマ、こんな所で何をしているのだ。 私は局に戻って既存の証拠品をまとめていろと言ったはずだが?」
御剣の目に怖いものがひかる。
条件反射で首を竦める糸鋸に、御剣はポケットからかなり古い型の携帯電話を取り出して放り投げた。
「それから、携帯電話というのは携帯してこそ意味があるのだよ。そこらへんにホイホイ落していたら何の意味もない。 そのうっかりのおかげで私が無駄にキサマを探すハメになったではないか。大体キサマは……っ!」
大声で捲し立てていた御剣の言葉が途切れる。
窓際にいたはずのゴドーが、いつの間にかドア付近で糸鋸を睨みつける御剣の目の前に立って、 無言のままその手を御剣に伸ばして抱き寄せていた。
「か、神乃木!? はなせッ!」
「…………イヤだね」
「なッ…………神乃木……?」
いきなりの抱擁に、ゴドーの腕から逃れようと暴れていた御剣だったが、 その様子がいつもと違うことに気がついておとなしくなる。
静かに抱かれていれば、御剣の頭を抱きこむ指先が震えていることが分かった。
こんなのは、尋常じゃない。
「どうしたというのだ……」
状況が分からずに、けれどゴドーがひどく打ちのめされていることだけは分かって、御剣は困惑するばかりだ。
「御剣、無事でよかったよ」
見兼ねた成歩堂がいまだついたままのテレビの画面を親指で差しながら声をかける。
御剣はしばらく画面を見つめていたが、映っているその場所と糸鋸の存在から、なんとか状況を理解したようだった。
強く抱きしめてくる腕のなかでもぞもぞと身じろぎして、なんとか動かせるようになった右腕を持ち上げ、 ゴドーの頭を撫ぜてやった。
小さな赤ん坊にするくらいに、そっと。
「…………いくな」
御剣の手に触れられて、一瞬身体を強張らせたゴドーは、御剣の首に頭を押し付けて、小さな声で、 けれど想いの全てを吐き出すように、そう一言漏らした。
まるで神に祈るような、母に縋るようなその声音に、御剣は胸が締め付けられる気がした。
「いかない。……あなたの手の届かないところには、いかないから」
御剣はどうしていいか分からずにただその身体を抱き返した。
成歩堂と糸鋸がすぐそばでこちらを見ている。常であればこんな状況で抱き合うなど絶対にしないが、 ゴドーのあまりに憔悴した様子に、そんなことは気にしていられなかった。
例えばここに御剣とゴドーが二人きりだったら。 ゴドーの顔を覆う機械のマスクを取り外してその表情を見ることができたら。 こんなにもどかしくはなかったかもしれないと、御剣は思う。 そうすれば、きっと正しい方法で、ゴドーを宥めることができただろうに。
けれど今、そうすることは出来ない。
もどかしく思いながらも、御剣はただひたすらゴドーの背を撫ぜていた。
そして、冷たくなってしまっていたゴドーの身体が、触れ合う御剣の体温と同じになる頃には、 ゴドーの指先の僅かな震えも、嫌なことばかりを紡ぎだす思考も、御剣の温もりに溶かされて、 取り縋るように強く抱きしめていたその腕から、だんだんと力が抜けていった。
「……神乃木?」
「……ボウヤに聞きたいことがあるんだが」
少しだけ身体を離し、顔を覗き込むようにして言われて、御剣は思わず身構えた。
「ム。なんだろうか?」
ゴーグルをしているから表情は分からないが、少なくとも笑ってはいない。
「ボウヤの携帯はどうした?」
重苦しい雰囲気の中、ゴドーが口にした言葉に、御剣は一気に肩の力を抜いた。
そんな深刻な口調で訊くことだろうか。
「コートのポケットに入っているはずだが、」
それがなんなのかと聞こうとするよりも早く、ゴドーは御剣のポケットから携帯電話を引っ張り出した。
二つ折りの携帯をパチリと開く。そこには御剣の見慣れた待受画面が映し出されることはなく、 ただ真っ暗な闇が広がっているだけだった。
「………………あ」
「…………ボウヤ。せっかくの便利な相棒……しっかり携帯していたところで、 眠らせたままじゃなんの意味もねぇんだぜ……?」
ゴドーの口端が吊りあがる。
その笑顔が怖いと思うのと同時に、ゴドーから壊れそうな、脆い雰囲気がなくなったことに、御剣は安堵した。
ゴドーを弱い人間だとは思わないが、どうしても脆くなってしまう瞬間があるのは仕方のないことで。 そんなときに上手に不安を拭い去るすべが、自分にあったならと御剣は思う。
「……すまない。電車に乗るつもりで、電源を落としたまま忘れていたようだ」
「クッ……お仕置きは、家に帰ってからじっくりと、な。明日の休日は、ゆっくり本なんて読めないだろうぜ」
御剣の耳もとに顔を寄せ、わざと低めた声で言ったゴドーに、御剣は今夜を想像して、 赤面した後真っ青になるという離れ技をやってのけた。
きっとひどい『お仕置き』で、さんざん鳴かされるんだろうと思ったら恐ろしいが、 今日ゴドーをあんなに打ちのめしたのが自分のうっかりのせいなら、それも甘んじて受けるべきだろうと、 西洋貴族のような格好をしながら武士の心を持つ御剣は覚悟を決めたのだった。
end // reset
2009.3.16-22 up
9000番を踏んで下さったレオナさまのリクエストは、
『ミツが瀕死の怪我を負ったと聞き、物凄く動揺するゴドなゴドミツ』
でした!
いくらなんでもゴドさんがヘタレすぎる……と思いつつ、
やっぱり過去のこととか考えたら、
きっと失くす恐怖はゴドさんにとって相当なのだろうとも思うのでした。
レオナさま、大変お待たせしてしまってすみませんでした……!
最高にカッコ悪いゴドさんになってしまいましたが、捧げさせて頂きます。
リクエストありがとうございましたー!
9000番を踏んで下さったレオナさまのリクエストは、
『ミツが瀕死の怪我を負ったと聞き、物凄く動揺するゴドなゴドミツ』
でした!
いくらなんでもゴドさんがヘタレすぎる……と思いつつ、
やっぱり過去のこととか考えたら、
きっと失くす恐怖はゴドさんにとって相当なのだろうとも思うのでした。
レオナさま、大変お待たせしてしまってすみませんでした……!
最高にカッコ悪いゴドさんになってしまいましたが、捧げさせて頂きます。
リクエストありがとうございましたー!