六花をとかす


 三ヶ月ぶりに帰ったマンションには、やはり随分と埃っぽい空気が充満していた。
 こんなことなら、あの男に合鍵を渡して換気ぐらいさせておくべきだったかと、御剣は少し顔をしかめたが、 前回の研修の時にそれをしたら、ほぼ毎日居座られたあげく、人の家の電話に堂々と出ていたことを思い出して、 自分の選択は間違っていなかったと、諦めの溜め息を吐いた。
 空気の悪い部屋の窓を開けることもせず、空港から持ち帰った大きなトランクだけを室内に残し、 身軽になってすぐに部屋を後にする。

 十二月の五時すぎともなれば、辺りは完全な暗闇に近く、かなり冷え込んでいた。
 空を見上げても、星どころか月さえ見つけられない曇天で、そういえば駅から乗ったタクシーのラジオで、 この辺りではかなり珍しいホワイトクリスマスが期待出来そうだといっていたのを思い出す。

 研修に出掛けたのは九月の中頃で、まだ夏の日差しが眩しく感じるほどだったから、季節を丸々ひとつ飛び越えたことになる。
 忙しい日程だった。
 年内に帰るのは絶対に不可能だと思っていたが、たまの電話でクリスマスや年末の話題にさりげなく触れてくる恋人を、 何を血迷ったか可愛いなどと思ってしまったから、なんとか無理を言って日程を詰めてもらったのだ。
 おかげで十二月に入ってからは嵐のような忙しさで、仕事以外に何かをした記憶がほとんどない。 慢性的な寝不足で頭がクラクラするほどなのだから、自分はあの男に相当甘いのだろうという自覚はある。

 このくらいの時間ならば、ちょうど事務所を閉めるころだろう。
   凍えそうな寒さは正直あまり得意ではないが、今夜ばかりはいつもの道を歩いて、 帰ってきたことを実感するのもいいかもしれない、と、御剣はコートの前をぎゅっと合わせて歩き出した。


 ゆったりと歩いた御剣が、成歩堂の事務所に着いたのは六時すぎだった。
 常であれば、ちょうど帰り支度をしている頃だろうと思ったのだが、一歩遅かったようで、 すでに事務所には人の気配はなかった。
 考えてみれば、クリスマスに法律事務所に足を運ぶ人間もあまりいないのだろう。
 いつもよりも早い店じまいだったとしても、不思議はなかった。

 御剣は少し考えてから、成歩堂の自宅へと足を向けた。
 道すがら、忙しさのあまりなんの土産も用意していなかったことに気付いて、クリスマスらしく、 小さなケーキとシャンパンを買った。
 似合わないな、と自分でも思ったが、街を飾る電飾や楽しげな音楽は、それを許してくれているような気がした。
 ガラにもなく浮かれているのも、全てこの街の雰囲気のせいにしてしまえばいい。


 成歩堂は自宅にも帰っていないようだった。
 インターホンを押しても反応のないドアの前で、御剣は携帯を取り出して画面をしばらく見つめていたが、 結局はそのままパタンと携帯を閉じた。

   今日、帰ってくることは成歩堂には伝えていない。
 連絡できなかったのは、単純に忙しすぎてそれどころでなかったからだが、 今連絡を入れないのは、せっかくだからいきなり出会って驚く顔を見たいと、ささやかな悪戯心だった。
 あまり遅くなるようなら電話をするとして、もうしばらくはここで待っていようと、 手に提げていた荷物をマンションの通路に置いて、成歩堂の部屋のドアに背を預けた。

 元気でやっているだろうか。
 十二月に入ってからは電話ですら話していないから、もしかしたら心配させてしまっているかもしれない。
 日本を出るとき、いってらっしゃい、と笑顔で、それでも少し寂しそうに言っていたのを思い出す。
 離れているのが辛いのは御剣だって同じで、けれど置いて行くほうが寂しがってどうすると、 表情も変えずに行ってくるとだけ返した、それが精一杯の強がりだと、気付かれてしまっていただろうか。
 なんにしても、もうすぐ会える。
 感情表現の豊かな男だ。ここにいる自分を見つけた時の、驚く顔、喜ぶ顔が目に浮かぶ。
 想像したらおかしくなって、勝手に頬が緩んだ。
 こんなところに突っ立ってニヤニヤしていたらさすがに怪しいだろう。 通報されたら笑い話にもならない、と、御剣は慌てて表情を引き締めた。


   聞き馴れた、けれど少し懐かしい声が聞こえたのは、御剣が寒さに耐えかねて、 もう電話してしまおうかと思っていた矢先だった。
 そっと、通路からマンションの入り口を覗き見て、目に入ってきた光景を認めるのが嫌で、意識的に何度か瞬きをした。
 そんなことをしたところで現実が変わるわけでもなく、そこにあるのは間違いなく見覚えのあるふたりのシルエットだった。
 楽しげに笑いあう、片方は予想通りの男で、もう一人だって御剣は知っていた。

 やがてマンションの入り口に二人が姿を消しても、御剣はそこから目を離せなかった。
 しばらく立ちつくして、ガタン、とエレベーターが動き出す音で我に返る。
 ふたりが上がってくる。このままここにいるわけにはいかなかった。
 御剣はエレベーターとは反対側の階段から逃げるようにマンションを後にした。


    例えばそれが成歩堂の助手を務める少女だったなら、御剣は笑って二人を出迎えただろう。
 けれど成歩堂の隣を、寄り添うようにして歩いていたのは、御剣は何度か会ったことがあるだけの、 成歩堂の昔の恋人だった。

(……『昔の』ではないのだろうな)

 あてもなく賑わう街を歩きながら、そんなことを思って御剣は自嘲の笑みを浮かべた。
 今日はクリスマスで、成歩堂の手にはケーキの箱が入っていると一目で分かる四角い袋がさがっていた。
 並んで歩くふたりは、今自分のまわりを歩いている恋人たちと寸分違わない、幸せそうな笑顔を浮かべて。

 やはり先に連絡を入れておくべきだったと、今更ながらに後悔する。
 そうすればあんな光景を見ることもなかった。成歩堂はきっと御剣が傷つかないように、 やんわりと断りを入れてくれただろうに。
 どちらにしても同じことだろうが、それでも目の前で見せつけられるのは、やはり痛い。

 先程までは味方だった、きらきらと輝く街の空気が、今では居場所のない自分を追い立てているように感じられて、 御剣は逃げ込むように灯りの少ない路地へと入った。
 本当は、キサマの恋人は私だろうと、成歩堂を怒鳴りつけてやりたかった。
 恋人の不実を罵って、それでもまだ一緒にいたいのだと、大声で泣き叫んでやれたら、どんなに良かっただろう。

 けれど、できない。

 自分が男である引け目だとか、もともと嫌いで別れたわけではないふたりに対する負い目だとか。
 何よりも、自分が日本にいなかった三ヶ月間で、成歩堂が彼女の気持ちに応えたのだとしたら。
 今泣いて縋って恋人を取り戻したとして、何になるだろう。よけい惨めになるだけではないか。

 ツン、と鼻の奥が痛む。
 街灯のない、月明かりすらない、ほとんど真っ暗な道だ。
 例えすれ違う人間がいたとしても、うつむいていれば良く見えやしないだろう。
 例え赤くなった鼻を見られたとしても、寒さのせいにできるだろう。
 例え濡れた頬が目に入ってしまっても、クリスマスに浮かれた人間は気にも留めないだろう。
 だから、泣いてもいいだろう。

 ただ涙を流すのに、こんなに言い訳が必要なほど、色々なしがらみに縛られて生きている。
 思い通りにいかないことのほうが圧倒的に多い人生で、束の間、幸せな時間があった。
 それだけで充分ではないか。
 言い聞かせるように心の中で繰り返しながら、御剣は暗い道を歩いた。


 後ろから、かすかな足音が聞こえてくる。
 恋人のもとへ急いでいるのだろうか、随分焦っているような、落ち着きのない足音は速いスピードで近付いてきた。
 御剣は泣き顔を見られないように、いっそう深く俯いてやり過ごそうとした、のだが。

 寒さに耐えかねてコートのポケットに突っ込んでいた腕を強く引かれて、 同じくコートを着込んだ身体に力任せに抱き込まれる。
 驚いて声も出ない御剣の首に顔を埋めてくる。荒く乱れた息が御剣の首筋に熱くかかった。


「……会いたかった」

 耳元で囁かれれば、もう間違いようがない。
 成歩堂だ。

「な……」

 なぜここにいるのか、そう言おうとしたのにうまく舌が動かなかった。
 無理やり声を出せばみっともなく震えてしまいそうで、御剣は口をつぐんだ。

「置き土産が、あったから。すぐわかったよ、御剣だって」

 御剣の心を読んだように、成歩堂が穏やかに話す。
 そういえば、成歩堂の部屋の前にケーキの入った袋を置いたままだったような気がする。
 そんなことを失念するほど、動揺してしまっていたということか。

「ぼくを、待っててくれたんだろう? 勝手に居なくなるなんて許さないよ」

 御剣を抱いていた腕が弛んで、解放される。
 成歩堂は至近距離から御剣の顔を覗き込むように見つめて、すぐに慌てたような表情になった。

「み、御剣! 泣いてたの!?」

 そしてまたすぐに抱きしめられる。
 ぎゅうぎゅうと締め付けられて、宥めるように髪を撫でられた。

「あああ、もう! きっと誤解してるんだろうとは思ったけど、泣かせてたなんて!」
「誤解……」
「キミ、ぼくとあやめさんが二人でいるのを見たんだろ? それで逃げた」
「…………」

   まったく図星をさされて黙り込んだ御剣に、成歩堂から、ふっ、と笑いとも、溜息ともつかない吐息まじりの声がこぼれる。
 こんなふうにするときの、成歩堂の表情を御剣は知っている。
 きっと、聞き分けのない子供に手を焼いているのに、その子が愛しくて堪らなくて困っているような、 そんな複雑な顔で笑っているんだろう。

「逃げないで、怒ってくれたらよかったのに」
「……ッ! そんなこと……!」

   できるはずがない、と言おうとして口を噤む。
 それができないのは自分の弱さだ。晒したいはずがなかった。

「うん……そうだよね。ごめんね、御剣」

 そう思ったのに、しっかり言葉の裏側を見つけてしまう。
 だから御剣はこの場所が心地よくて、少し怖いのだ。

「……謝られても、困る」

 そんな優しい声で、愛しげな目でみつめて。
 そんなふうにされたら、気付いてしまう。

「全部誤解だから……言い訳させて?」

 取り縋るように両腕で御剣のコートを掴んでいる、その情けないさますら愛しいと。

「……もう、いい」

 言い訳なんて、そんなものは必要ない。もう、わかってしまったから。
 御剣の否定の言葉に不安げに揺れる瞳だとか、そのくせ、絶対に離してくれそうもないほど力がこめられた両腕だとか。
 大切なものなら、今、目の前にあるすべてだと。

 成歩堂のコートの襟元をグイッと引き寄せて、その唇に掠めるだけのキスをする。
 すっかり冷えてしまった御剣の唇がやけどしそうなほど、それは熱かった。

 あんまり珍しい出来事と今の状況とのギャップに、成歩堂は口をポカンと開けて、まさに鳩が豆鉄砲だ。
 そんな男を強くひと睨みすると、御剣はごまかすように小さく咳払いをした。

「成歩堂……キミの恋人は私だ。不貞などはたらけばどうなるか、よく肝に銘じておくことだな」

 豆鉄砲をくらった鳩、もとい成歩堂は、一瞬、さらに目を大きく見開いてから、 わざとらしいとさえ思えるほどの大きな溜息を吐いた。

「御剣……それ、反則……」

 いったい何が反則だというのか。
 それに、御剣の肩に頭を預けてがっくりと項垂れている成歩堂の、 僅かに見える首が真っ赤になっているのはなぜだろうか。
 御剣が考えても分からないような疑問と戦っている間も成歩堂は、あー、とか、うー、とか、妙な奇声を発していた。

「あー、ダメだ。どうしたって顔が笑っちゃうよ」
「ム。失礼なヤツだな」
「だって御剣があんまり可愛いから。どうしよう、すごい嬉しい。あああ、ぼくは御剣のほうがよっぽど心配だよ。 こんなの、どこの国のヤツだって一発で落ちるに決まってる」

 意味がまったくわからない。自分の知らない異国の言葉を聞いているようだ。
 どこか具合でも悪いんじゃないだろうか。

「おい、拾い食いでもしたのか」
「……今から、する」

 そう言うやいなや、成歩堂は唇を寄せてきた。
 先程御剣からしたのとは比べ物にならない濃厚なキスに、頭がクラクラする。

「はい、そこまで!!」

 御剣が成歩堂の背に腕をまわして、キスに応えようとしたところで、背後から懐かしい声が制止の声をかけてきた。
 人がいるとは思っていなかった御剣は、慌てて成歩堂を突き飛ばした。

「公道でイチャイチャしない!」
「まったくなぁ。せっかく捜しにきてやったってのに」

 言葉とは裏腹に楽しそうな笑顔を浮かべてこちらに歩いてきたのは、御剣の良く知っているふたりだった。

「真宵君に、神乃木……?」

「おかえりなさい、みつるぎ検事!」
「久しぶりだな、ボウヤ」

 なぜこの二人がここにいるのか、御剣には状況が掴めない。
 問うように成歩堂に視線を向けるのだが、成歩堂は邪魔者の登場が気に入らないらしく、 せっかくイイところだったのに、と文句を言うので忙しいらしい。

「今日はなるほどくんちでクリスマスパーティーなんですよ! みんな待ってるんだから、はやく帰らないと!」
「みんな、で……?」
「そう、みんなで、だよ」

 真宵と成歩堂の言葉で、自分の勘違いに気付いた御剣は、いたたまれなさに俯いて唇を噛んだ。

「ムぅ。いらない手間を、かけさせてしまったようだ。すまなかった」
「御剣が謝ることじゃないよ。ぼく、最高のクリスマスプレゼント貰った気分だし」

 随分とご機嫌らしい。
 御剣にはいったい何がプレゼントになったのかさっぱり分からないままだったが、恋人が嬉しそうなのは、悪くない。

「さぁさぁ、一刻も早く帰らなきゃ! ケーキが待ってるんだから!」

 食べ物のことになると目付きが変わる真宵に背中をぐいぐいと押されて、御剣と成歩堂は歩き出す。
 後ろからはどこまでもマイペースなゴドーが、それでもちゃんとついてきていた。

「ね、御剣。みんなが帰ったら、ふたりだけでクリスマス、しようね」

 真宵がふたりの後ろから離れてひとりで先に歩きだしたのを見計らって、 御剣の耳もとで内緒話よろしくそんなことを言う成歩堂に、御剣は顔が熱くなるのを感じた。
 きっと赤くなっているのだろうと思うと、逃げ出したくなる。
 それでも、ね、と念を押してくる恋人に、否を言うことは出来ずに、御剣はこくりと首を縦に一度だけ振った。

 御剣だって、久しぶりに恋人と過ごす夜が嬉しくないはずがなかった。


「随分見せつけてくれるじゃねェか」

 いきなり後ろから声が投げられて、御剣は思わずビクリとする。
 やってられん、と肩を竦めるゴドーに、成歩堂はまた邪魔をされたような顔をした。

「じゃあ見なきゃいいでしょう。っていうか、見ないでください。ぼくの御剣は見られると減るんです」

 堂々と馬鹿馬鹿しいことを言うこの男は、ある意味すごいと御剣は思う。
 その自信はいったいどこから来るんだと、つっこみたくもなるが。

 ゴドーは成歩堂のしょうもない発言に、やれやれのジェスチャーをして見せた。

「せっかくのホワイトクリスマスだってのに、こう熱いんじゃ積もる前にとけちまうぜ」

 ゴドーの言葉に上を見上げれば、真っ暗な空から、天使の羽根のようなやわらかな雪が、ゆっくりと降りて来ていた。


end // reset
2008.12.31 up
ヒューヒューだね! みたいな。
うちの成歩堂はけっこういつも可哀想な感じなので、
クリスマスくらいはイイ思いをしてもらおうという救済企画でした。