だからその手を伸ばして 1
きっと、焦っていたんだろうと思う。
「それじゃあ明日のバレンタイン、ぼくがチョコを貰えればぼくの勝ち。もらえなければ御剣の勝ち」
それでいいよね? と御剣の顔を見据えれば、御剣はいかにもバカバカしいと言いたげな呆れた顔で成歩堂を見返してきた。
「フン。言っておくが、真宵くん及び春美くん、もしくはそれ以外の友人からの義理チョコは無効だぞ」
「もちろん、わかってるよ。あくまで本命チョコだ」
御剣を鋭く見据えたまま言うと、御剣はさぐるような視線を向けてくる。
いったい何がしたいんだと、その顔が言っていた。
「負けたほうは勝ったほうの言うことをなんでもきく。ひとつだけ、ね」
「いいだろう。どうせ私が勝つに決まっている」
あまり興味もなさそうに言って、御剣は持っていた書類に目を戻した。
話が終わったなら出て行けと、そう言わんばかりに成歩堂の存在を無視して仕事を始めたその姿を、 しばらく無言で見つめていた。
いつまでたっても御剣の執務室を出て行こうとしない成歩堂に、御剣から少し苛立ったような視線が向けられる。
そんな態度にいちいち傷つくほど、御剣に理想を抱いちゃいない、けど。
成歩堂がこんな子供じみた賭けを言い出したのには、理由があった。
「ぼくが勝ったら……ぼくを好きだって言ってよ、御剣」
御剣の細められていた目が、意表を突かれたように少し見開かれた。
成歩堂の真剣な表情に気がついたのか、その目が再びすっと細くなる。
「そのような言葉、強要して言わせて、キサマはそれで満足か?」
哀れな男だな。
御剣が放った容赦のない言葉が胸に刺さる。
御剣の言っていることは正しい。そんなことは百も承知だけれど。
「でも……それなら……御剣にとってのぼくって一体何なんだろうね?」
質問のかたちをとりながらも、成歩堂はそう言ってすぐ御剣に背を向け、答えを待たずそのまま扉へと向かった。
背後から御剣の息を呑むような音が聞こえたけれど、振り返ることはしなかった。
本当は、言葉が欲しいわけじゃなかった。
御剣の言う通り、無理やり言わせた愛の言葉に意味などない。
成歩堂はただ、御剣に自分の想いを知ってほしかったのだ。
何度求めてもはぐらかされる、御剣の答えをどれだけ自分が欲しているかを。
検事局から自分の事務所へと帰る道を歩いていると、冬の冷たい空気が成歩堂の頬を滑るように通り過ぎていく。
日差しを遮る分厚い雲を見上げながら成歩堂は、それに似合いの深く重い溜息を吐き出した。
明日はバレンタインだ。
気まずい。気まずい。気まずい。気まずい。
昨日、勢いに任せて口に出してしまった言葉を、成歩堂は早くも後悔していた。
あんな賭け、まるでガキだ。きっと御剣は呆れているだろう。
御剣に冷たい言葉を投げられるのは慣れている、が、今の自分にはどうにも耐えられそうになかった。
御剣の執務室の前で十分以上も扉に手をかけるのを迷っていた成歩堂は、それでも覚悟を決めてそのドアを開いた。
部屋に入った瞬間、椅子に座っている御剣の様子がおかしいことに気がついた。
それはいつも御剣を見ている成歩堂だからこそ分かるくらいの、小さな違和感。
何がおかしいのかと言われてもはっきりと言葉にすることは出来ないけれど、あえて言うならば、 御剣を包む空気が冷たく張り詰めているような。
扉の開いた音で成歩堂を見遣った御剣の表情は、硬い。それはいつもの無表情とは違う種類の冷たさだった。
怒っている、のとも少し違う。まるでそれは……
「キサマはチョコなど、貰えなかっただろう」
もう少しで何かに気付けそうだった。
けれど御剣に、まるで断定するようにそんなことを言われて、成歩堂は思考を中断させるしかなかった。
賭けの結果など聞かなくても分かり切っていると、そんなふうに言われれば、成歩堂だって少しは頭にも来る。
そしてそれ以上に、成歩堂から平常心を奪ったのは、御剣のデスクに置かれた、ひとつの小さな箱だった。
明らかにプレゼント用の包装を施されたそれは、きっとチョコレートだろう。
御剣がモテるのは分かっている。バレンタインにチョコを貰うなんて当たり前のことだろう。
けれど、だからこそ。今日という日に、数えきれないほどチョコをもらっただろうに、ただひとつだけ、 御剣のすぐ傍に置かれたチョコレートに、成歩堂は嫉妬した。
本当はただ単に、今貰ったばかりでそこに置かれていただけかもしれなくても。
「賭けは私の勝ちだ。そうなんだろう?」
何も言わない成歩堂に苛立ったように、御剣が問う。
「ずいぶん自信があるみたいだけど、ご生憎様。ぼくだってチョコくらい貰えるんだよ」
デスクの上のチョコから目を離すことが出来ないまま、それでも御剣の言葉につられるように、 成歩堂の口は勝手に動いていた。
「……嘘だろう」
「嘘じゃないよ」
「……嘘だ」
「嘘じゃないってば。昼間警察署に寄ったとき、資料室でチョコ渡されて、いつも見てましたって告白されて、」
「黙れッ!!」
御剣から目を逸らして話していた成歩堂が、御剣のあまりの剣幕につい視線を合わせてしまって、何も言えなくなった。
成歩堂を睨みつけて瞬きをしない、御剣のその瞳には、今にも零れ落ちそうな涙の膜が張っていた。
「それで、キサマはそのチョコを受け取ったのだな」
先ほどとは打って変わった静かな声音で、御剣が呟いた。
衝撃に頭が追い付かない。
茫然と立ち尽くして何も言うことが出来ないでいる成歩堂の目の前で椅子から立ち上がった御剣は、 デスクの上にあった小さな包みを手に取り、成歩堂の胸へ思いきり投げつけると、 そのまま何も言わずに部屋を出て行ってしまった。
力の限り投げつけられたはずの箱は、けれどその軽さゆえたいした衝撃もなく、 成歩堂の胸にぶつかったあとは床にコトリと音をたてて落ちた。
成歩堂はただ茫然と、その包みを拾ってから、部屋をぐるりと見まわした。
この箱以外には、チョコレートらしきものなどどこにも見当たらない部屋。
ただひとつだけ、御剣の傍に置かれたチョコレート。
これは、本当に御剣が誰かに貰ったものだったのだろうか?
本当はもう分かりきっていることを自らの胸に問う。
御剣は律儀な男だ。
たとえどんなに激昂していたとしても、たとえそれが何とも思っていない人間から貰ったものだとしても、 人の好意を投げつけるなんて、そんなことは絶対にしない男だ。
辿り着いた答えに愕然として、成歩堂は口元を片手で覆う。
(ぼくは、あいつに何を言った……?)
唇から低い呻きが勝手に這い出してくる。
手の中にある、意思なんてないはずの箱が、まるで自分を責めているように思えてくる。
早く開けと、真実はこの中だと、訴えられている。
破らないように丁寧に包みを剥がして、小さな箱のふたに手をかける。
ゆっくりと開くと、御剣らしい上品なチョコレートがいくつか敷き詰められ、 その上には名刺大の小さなメッセージカードが添えられていた。
伏せられているそれを手に取り、成歩堂は祈るように裏返した。そこには見慣れた、御剣の几帳面な文字で一言だけ。
『賭けは、キミの勝ちだ』
――あぁ、ぼくは最低の大馬鹿野郎だ――
2009.2.12 up