だからその手を伸ばして 2
「御剣検事、どうして受け取らないんスか?」
肩を落として御剣の執務室を出て行った女性職員と入れ替わるようにやってきた糸鋸は、 部屋に入ってくるなり不躾な質問を遠慮なくぶつけてきた。
「なんだ、糸鋸刑事。キミには関係ないだろう」
「まぁ、単なる興味っス。自分なんて毎年ひとつももらえませんから、もったいないなぁと」
ヘラヘラと笑いながら言う糸鋸に、御剣は居心地悪そうに肩を竦めた。
「その気がないのに受け取るわけにもいかないだろう」
御剣のその言葉に、珍しいものでも見るように糸鋸が目を見張った。 その視線に、御剣はさらにいたたまれない気分になる。
そんなにおかしなことを言っただろうか。
「去年まではいちいち断るのが面倒だからって、全部貰ってたじゃないっスか」
「き、去年は去年、今年は今年だ! 馬鹿なこと言っていないで、仕事をしたまえ!」
怒鳴りつけてやれば、糸鋸は首をすくめてそそくさと本棚の整理を始めた。
私用で部下を使っている自覚はあるが、暇だというなら有効利用するのは当然だ。御剣は無駄が嫌いなのだ。
「それにしても、御剣検事はすごいッスよねェ。毎年たくさんチョコ貰って……あ、今年は貰ってはなかったっスね」
一度は静かになったはずの糸鋸は、性懲りもなくまた同じ話を蒸し返してきた。
本当に、学習しない男だ。
「くだらないことで羨むな。チョコなど、そんなに欲しければ自分で買えばいいだろう」
「そういう問題じゃないッス……」
「じゃあどういう問題なんだ」
「そりゃ、誰かが自分を想ってくれてるってのが嬉しいんじゃないスか。 ま、自分はそんな嬉しい思いはほとんどしたことがないっスけど……」
いじけたように唇をへの字に結んだ姿は、でかい犬が尻尾を丸めて不貞寝している様とよく似ていた。
御剣は思わず笑ってしまいそうになって、慌てて表情を引き締める。 ここで笑ったらもっと面倒なことになるのは目に見えていた。
「大の男が拗ねるな。みっともないぞ」
「拗ねもするっスよ! 御剣検事はともかく、あのハッタリ弁護士でさえチョコ貰ってるのに、 自分は誰にも好かれてないッス……」
「……今、なんと言った?」
いきなり声のトーンが低くなった御剣を、糸鋸はキョトンとした表情で見つめた。
「えぇ? ですからね、自分は誰にも」
「その前だ!」
最後まで言わせず、鋭く遮った御剣のいつになく厳しい声音に、もしかして自分は何かいけないことを言ったのだろうかと、 糸鋸はビクビクしながら少しだけ思案した。
「あぁ、あの弁護士ですか? ヤッパリくん……じゃなくて成歩堂、でしたっけ。さっき警察署で見かけたんスよ。 チョコレート渡されてるところ」
あんなへっぽこ弁護士のどこがいいんスかねェ……などと遠い目をしている糸鋸の言葉など、 御剣の頭にはもう入ってこなかった。
一瞬、心臓さえもが動きを止めたような気がした。
「……何かの間違いだろう……あいつがチョコを貰うなど、そんなことがあるわけがない」
「やっぱり御剣検事もそう思うでしょ? あの弁護士が貰えて自分が貰えないなんて、世の中間違ってるっス!」
力説した糸鋸が御剣を見ると、御剣は俯いてデスクを見つめたままピクリとも動かない。
様子のおかしい上司が気になって、糸鋸はデスクに近づいた。
「具合でも悪いんスか?」
心配そうに覗きこまれて、御剣は我に返る。
「いや、問題ない」
応えながら、御剣は同じ言葉を自分に言い聞かせていた。
問題ない。きっと何かの間違いだ。成歩堂はチョコなど絶対に貰わないと決まっているのだ。
成歩堂を残して執務室を飛び出した御剣は、あてもなく検事局内を歩きながら、滲む視界と戦っていた。
こんな所で泣くわけにはいかない。
とはいえ、涙を我慢することは出来ても、きっと顔は酷いことになっているだろうことは容易に想像がついた。
廊下もつきあたりまで来てしまっていた。目の前にある扉は非常階段へと続くもので、使われることはほとんどない。 今の御剣には好都合だった。
扉を開けて、暖房のついていないその寒さに身震いした。
それでも御剣は気にすることもなく、踊り場の手すりに肘をついて身を乗り出した。
実際、混乱した思考を落ち着けるにはこれくらい寒いほうがちょうど良いのだ。
つまらない意地を張っていた自覚はある。
成歩堂が自分を想っていることなど、わかっていた。 それは好きだという言葉がなくても疑う必要がないくらい、はっきりと。
もちろん御剣も成歩堂を好きだったからこそ、あの夜、酔った勢いに任せて身体を繋げることもしたのだ。
好きでもないヤツとセックスをして喜ぶような性分ではない。ましてや相手が同性ならなおのことだ。
自分の気持ちも、相手の気持ちも分かっていた御剣は、もちろん焦ってなどいなかった。 自分に好きだと言わせようと必死な成歩堂の様子を、少々面白がってすらいた。
けれど昨日、切羽詰まったように成歩堂があの賭けを持ちかけてきた時、御剣は初めてこのままではいけないと思った。
成歩堂は、御剣の気持ちを分かっていないのだ。
好きだと口にしていないのは成歩堂も御剣も同じではあるが、その他の愛情表現となると比べるまでもない。
キスもセックスも、ふいにかわされる抱擁すら、御剣からしたことはまるでなかったのだと、その時初めて気付いたのだ。
成歩堂と最初の夜を過ごしてから、御剣は幸せだった。
けれど成歩堂は、そうではなかったのかもしれない。
自分のつまらないこだわりのせいで成歩堂を追い詰めていたのだと、昨日の成歩堂の言葉で悟った御剣は、 バレンタインである今日、自らチョコを渡すことで成歩堂を賭けに勝たせようと決めたのだったが。
「まさか、本当に他の人間からチョコを受け取るなんて、な……」
呟いた声は自分で思っていたよりもっと掠れていて、御剣は自嘲の笑みを深くするしかなかった。
分かっている、誰からチョコを貰おうと、成歩堂が好きなのは自分だと。
そう確信できるくらいには、成歩堂は御剣に愛を伝えていてくれた。
だけど、心がついていかない。自分がいるのに他所からのチョコを受け取った成歩堂に、胸が痛んだ。
放っておけばどこまででも暗くなりそうな思考を、御剣は大きな溜息ひとつで押しとどめた。
思い返せば思い返すほど、この件で悪いのは成歩堂よりも自分だ。
戻って、成歩堂に自分の本当の気持ちを伝えよう。
すべては、それから始まるべきだったのだ。
心を決めて、ゆっくりと顔を上げた御剣の背後で、非常階段の重い扉が開かれる音がした。
2009.2.17 up