幸せのありか 1

 ゴドーが通常の始業時間より2時間遅れで成歩堂法律事務所の扉をあけると、所長が机に向かっているのが見えた。
 随分珍しいことがあるもんだ。

 成歩堂はもともと机に向かってする事務的な仕事は得意ではない。 それでもやらない訳にはいかないのだか、いつもであればあれこれと理由をつけて先延ばしにし、 副所長である真宵にせっつかれて夕方始めるのが常だ。
 それがまだ正午も回ってないこの時間に、しかも随分と真剣に机に向かっている。

 異変はそれだけではなかった。
 ゴドーが遅刻するのはいつもの事だが、それに対し、いっそ律義とも言えるほどに毎回欠かさず文句を言って来るはずの 真宵も、今日はゴドーに何の反応も示さない。
 こちらも常にないほどの真剣さで、事件関係の書類をファイルにまとめている。
 さらにはたまに事務所に顔を出す春美までもが、メモ帳になにやら書き込んだものを見ながらなにやら考え込んでいる。

「今日は勤労感謝の日かい?」
「……」
「……」
「……」

 ――――完全に無視である。

 ツッコミの不在にほんの少し寂しくなったゴドーは、何だか鬼気迫る様子で書類のファイリングをしている真宵には 近付かないで、とりあえず成歩堂の机に向かった。
 しかし成歩堂に声を掛けるより一瞬早く真宵から声がかかった。

「ゴドーさんッ! 今日はなるほど君の仕事の邪魔しないで下さいね」

 ――――今日は?

「クッ……まるで俺がいつも仕事の邪魔ばかりしてるみたいな言い方だな。そんなこと言われたら傷付いちゃうぜ?」
「ゴドーさんは少し傷付いた方がイイと思います。そんなことより、ヒマならそこの棚から青いファイル取ってもらえますか」
「……ずいぶん辛口だな」

 肩を疎め、それでも言われた通りにファイルを真宵に差し出しながらゴドーが呟く。 と、今まで無言のまま机に向かっていた成歩堂が、見兼ねたように言葉を挟んだ。

「誕生日なんですよ。御剣の」

 その言葉に無言で首を傾げたゴドーの疑問に答えるように、成歩堂は続けた。

「もちろん本当の誕生日は金曜だって事も分かってます。でも当日はどうしても時間が取れないらしくて」

 ――その通りだ。恋人であるはずのゴドーにすら、忙しくて家にも帰れそうにないから何もしてくれるなと、 よく考えると随分と酷い言葉を寄越したのだ。

「それで、今日なら大丈夫だって?」

 ありそうもないことだった。ここ2週間程の御剣は驚くほどに多忙で、毎日のように帰りは日付が変わってから、 もしくは検事局に泊まりといった具合だ。
 その仕事が一段落するのが今週末だと聞いている。
 つまりそれまでは空いている時間などゼロに等しいということだ。

 腑に落ちない様子のゴドーに、成歩堂が手招きをする。
 ゴドーが近付くと、真宵や春美に聞こえないくらいに落とした声で話し始める。

「問題なのはそこなんです。本当は大丈夫なんかじゃないのに無理してるんじゃないかって」
「アイツは時間がないならはっきり言う奴だと思うがな」

 実際自分はこれ以上ないくらいはっきり言われたのだ。ということは言わないでおく事にした。

「僕やゴドーさんに対してはそうですけど……。実は、水曜の約束を取り付けたのは春美ちゃんなんです」
「おチビちゃんが? それはまた……」

 ゴドーはゴーグルの下の眉を上げた。

「最初に僕が金曜の予定を聞いた時にはとても余裕があるようには見えなかった。 だから僕もすぐに諦めて、二人にそのことを伝えたんです。でも、」

 成歩堂はそこで一旦言葉をとめて、ソファに並んで座っている二人を見遣った。

「お嬢ちゃんたちはどうしてもあのボウヤを祝ってやりたかった訳だ」

 ゴドーの言葉に成歩堂が小さく頷いた。

「その日の夜に2人で御剣に電話したみたいで。しかも真宵ちゃんじゃなくて春美ちゃんがってトコロが確信犯なんですよね」

 御剣は春美くらいの年齢の子供に全く免疫がない。 今まで関わったことが殆どないのだから、断り方が分からなくて当然だろう。
 携帯を握り締めてしどろもどろに言葉を探す御剣が容易に浮かんで、ゴドーは声を出さずに笑った。
 その笑みを春美達に対するものだと思ったのか、まったく困っちゃいますよね。と成歩堂も少し笑った。

「ああ、まったくだ」

 ゴドーも笑みを浮かべたまま返す。
 困ったなどと口では言いながら、成歩堂の顔はとても優しい。
 わかっているのだ。春美も真宵も、御剣のことが大好きだからこそしたことなのだと。
 それはもちろんゴドーにもわかっていた。
 だとすれば自分がするべき事は――

「なるほど君! コソコソ内緒話してないで仕事してよね! 今日は4時までに業務終了させるんだから」

 我慢の限界が来たらしい真宵に怒られて、わたわたと書類に目を通し始める成歩堂を尻目に、 ゴドーは先程入ってきたばかりのドアへと向かう。
 それに気づいた春美が、どちらへ行かれるんですか、と声を掛けた。

「今日は此処にいても邪魔になるだけだろうからな。ちょっと外回りにでも行ってくるさ」

 それだけ言うと素早くドアをくぐり抜けてパタリと閉めてしまう。
 事務所の中から真宵と成歩堂がなにやら叫ぶ声がしたが、聞こえないふりを決め込んで歩き出した。



 申し訳程度にノックをして御剣の執務室に入ると、 部屋の主は訪問者に一瞥をくれることもなく、必死の形相でパソコンを睨んでいた。
 仕方なくデスクの前まで近付くと、ゴドーの身体でできた影に驚いたように御剣が顔を上げた。
 呆れたことに、本気で気づいていなかったらしい。

「なっ……なぜここにいる!」
「恋人に逢いに来たのさ」

 驚いた表情を取り繕う余裕もなく、御剣が口を開くのに対し、ゴドーはあくまでしれっと答える。
 それを聞いて、ピクリと僅かに眉が上がったのを隠すように、御剣は眉間に皺をよせた。 ……その一瞬の反応を見逃すゴドーではなかったが。

「来ちゃ悪かったかい?」
「悪いに決まってるだろう。キサマ、仕事はどうしたのだ!」

 御剣は即座に言い返すが、目線が斜め下に逸らされていれば、説得力はまったくない。

「今日はみんな忙しいらしくてな。仕事の邪魔だと追い出されたのさ」

 事実とは大分違った言葉だったし、いくら成歩堂でも、忙しい時に邪魔になるような人間を雇ったりはしないだろう。 が、御剣は、この男ならそれも有り得るかもしれないと思った。 それくらいこのゴドーという人間は、良く言えば自由な、悪く言うなら空気の読めない、否、あえて読まない男なのだ。

「だからといって私の所に来られても困るのだよ。忙しいのは知っているだろう」

 疲れたように息をつき、パソコンの画面に目を戻しながら言う。
 仕事の邪魔をしにきたと本気で思っているのだろうか。だとしたらかなり不本意な認識のされ方である。

「つれねぇな。大好きな恋人が逢いに来たのにキスのひとつもなしかい?」
「ついに耳までイカれたらしい。忙しいといったのだよ」

 懲りずに軽口を叩くゴドーにちらりとも視線をくれる事なく言い放つ。
 これは本気で切羽詰まっているらしい。これ以上遊んでる訳にはいかないようだ。

「何してるんだ?」
「見ればわかるだろう。会議用の書類を作成しているのだ」

 そう言って画面に向かう御剣の顔は真剣そのものだ。が、その手元の動きといったら、ありえないくらいにぎこちない。 ゴドーが足の指で打った方が何倍も早いのではないかと思うほどだ。

「苦手なら部下にでも頼めばいいだろう」
「そんなこと出来るわけなかろう! パソコンの入力もろくに出来ないなどと思われたら私は……ここにいられない」

 不器用なことで何かトラウマでもあるのだろうか、御剣はひどく頑なだが、机にはこれから入力するのだろう資料の束が、 結構な厚みで残されていた。このペースでは日が暮れても終わらないだろう。

「俺がやろう」
「なっ……!」
「俺なら一時間もかからないで終わるだろうさ。ボウヤはその間に昼寝でもしてるんだな」

 御剣が言葉を失っている間に、ゴドーは御剣を椅子から退かすと、自分がパソコンに向かって入力をし始める。
 しばらく茫然としていた御剣だったが、我に帰ると猛然と抗議した。

「勝手なことをするな! これは私の仕事だ。いくら元検事とはいえ今は部外者なのだし、 キサマに手出しされずとも自分で仕上げてみせる」

 眉間に皺をよせて睨みつけるが、ゴドーはそちらを見ようともせず、 御剣からしたら神業のようなスピードでキーボードを打ち続けていた。
 まるで無視するかのような態度に、御剣がもう一度口を開こうとした時、ゴドーがポツリと呟いた。

「目の下」
「は……?」
「真っ黒な隈が出来てるぜ。そんな疲れたツラしてお嬢ちゃんたちに会いに行くつもりかい?」
「…………」

 思わぬ攻撃を受けて御剣が言葉に詰まる。

「可哀相に心配するだろうなぁ。無理矢理誘っちまった自分達を責めるかもしれない。 悪いのははっきり断れないボウヤの方なのに、だ」
「そっ……それとこれとは話が、」

「いいか怜侍、忘れるなよ。何にでも優先順位ってモンがある。 お嬢ちゃんたちの気持ちより自分のくだらないプライドのほうが大事だってんなら、俺は今すぐここから出てってやるさ」

 反論しようとした御剣の言葉を遮って続けたゴドーの声は、いつもの軽い響きとはまったく違っていて、 御剣はそれ以上の言葉をなくしてしまった。
 しばらくお互い睨み合っていたが、御剣から視線をふいと逸らした。

「……だからといって、人に仕事を任せた状態でぐうぐう寝れるような性分ではないのだよ」

 横を向いてしまった御剣の眉は困り果てたように下げられて、口は拗ねたようにキレイなへの字を描いている。
 泣き出す寸前のように歪んだその顔があまりにも可愛らしくて、ゴドーは口許に笑みが浮かぶのを抑えられなかった。

「クッ……まったく、わがままで困ったお姫様だな」

 ゴドーはそう言うと、ノートPCと資料を持って応接スペースのテーブルに置き、 自分はソファに座ると御剣にちょいちょいと手招きをする。
 そして、怪しげな顔をしながらも、ゆっくりとソファに近付いてきた御剣がゴドーの手の届く範囲に入ると、 御剣が抵抗する間も与えずにソファへと引き倒した。

「何をする!」
「これなら眠れるだろう?」

 言われて自分の置かれた状況を確認した御剣は、顔いっぱいに不満げな表情を浮かべる。
 今は頭を持ち上げているが、それを下ろせばまさにひざ枕という状態だった。

「こんな状態では逆に眠りにくいぞ」
「そうか? まぁ、大人しく目閉じてろよ。眠れなくても視界が遮られてれば休息にはなるんだぜ」
「…………」

 しばらく不満げな顔のままゴドーを見ていた御剣だったが、何を言っても無駄だと悟ったのか、 諦めたように溜め息をひとつこぼすと、神乃木の膝の上に頭を落とした。

 目を閉じた御剣の頭にゴドーの手が優しく乗せられる。そのままゆっくり髪を梳くように撫でられて、 あぁ、気持ちがいいな、と思う。 本人には絶対に言ってやらないが、御剣はゴドーの大きな手で髪を撫でられるのがとても好きだった。 心地良くて、自然と体の力が抜けていった。

 視覚という最大の情報源が閉ざされ、その代わりに他の感覚が敏感になる。 ゴドーの太ももにくっついている左耳からは血液の流れるザァザァという音が聞こえてきたし、 嗅覚はゴドーから僅かに香るコーヒーと煙草の匂いをしっかりと感じ取っていた。 それらに不思議なほど心が落ち着いていく自分に気がついた御剣は、 このままいけばこの男の言う通り眠ってしまえそうなことに少し悔しくなったけれど。
 それでも目を開く気には到底なれなくて、そのまま心地良い感覚に身を任せた。




 御剣から規則正しい寝息が聞こえはじめてからも、しばらくは御剣の髪を撫で続けていたゴドーだったが、 ふと何かに気付いたようにテーブルの上を見遣った。

 さすがにこの状態じゃあパソコンは使えないだろう。

 まぁいぃか、と御剣の寝顔を見て思う。まだ時間はある。 もう少し御剣の眠りが深くなったらクッションに代役をさせるとして、 もうしばらくはこのまま御剣を眺めているのも悪くない。

 先程までは深く刻まれていた眉間の皺も今は跡形もなくて、安心しきったその顔はまるで天使みたいに愛らしいと、 半ば本気で考える。

 御剣のこんな顔を見れるのは自分だけだろうという甘い優越感を味わいながら、ゴドーは再度、御剣の髪を梳きはじめた。

 ひどく穏やかな気分だった。コーヒーがないことだけが口惜しかったが、それすら気にならないほど、 自分の傍で無防備に眠る愛しい存在に、心が満たされていく。
 誕生日の前祝いのつもりで手伝いに来たのだが、逆にプレゼントをもらってしまったようだ。


    * * *


 何ということだろう。
 ふと目覚めた御剣が見たものは、まだ空高くにあった太陽が沈みかけていること以外は、 眠る前となにひとつ変わっていない部屋の状況だった。
 テーブルの上にはノートPCと資料が先程と寸分違わぬ位置に置いてあるし、 ゴドーも同じように御剣の頭を膝に乗せてソファに座っている。ただし、御剣の髪を梳いていた手は今は動いていない。 顔半分を覆い隠す派手なゴーグルのせいで気付くのが遅れたが、この男は確実に眠っていた。


「神乃木っ……起きろ!」

 慌てて起き上がった御剣が叫ぶと、ピクリとゴドーの肩が動いて、下を向いていた首がゆっくりと持ち上がった。
 状況が把握出来なかったのか、少しの間ぼんやりと御剣を見つめていたゴドーだったが、 あぁ、と納得したように声を漏らした。

「俺も寝ちまってたか」
「何を落ち着いている! 書類もまったく出来ていないではないか。自分がやると言ったのだろう!  ……キサマを信用した私がバカだったようだな」

「まぁ、そんなに怒るなよ。寝顔は天使みたいだったんがな」
「おっ……怒るに決まってるだろう! そんな軽口でごまかされないからな」

 本当のことなんだが、と心の内で思ったが、これ以上御剣の頬を真っ赤にするのは気が引けて、口には出さなかった。
 
「そんなに慌てなくてもすぐに終わらせるさ。少なくともボウヤの頬の寝跡と髪の寝癖がなおるまでにはな」

 口許に笑みを浮かべ、御剣の頬を撫でながら言ってやると、慌ててデスクから鏡を取り出して自分の顔を確認する。 そこには左側に極端に流れた髪と、真っ赤に線の入った頬が映っていた。

 御剣は忌々しそうに舌打ちをひとつすると、鏡を持ったままドアへと向かった。
 ドアノブに手をかけて、ゴドーの方を振り返ると、眉間にこれでもかというほど皺をよせた最高に機嫌の悪い顔で早口に言う。

「10分で直して戻ってくる。それまでに終わっていなかったら、キサマの言葉は二度と信じてやらないからな」

 そのままバタンと盛大な音をたててドアが閉まるのを見遣って、まるで子供のような御剣のセリフにゴドーはおかしそうに、 クッ、と笑った。

 急いで仕事をしてしまわなければ。これ以上ボウヤの機嫌を損ねてしまわないように。
 ゴドーはカタカタとキーボードを打ち始める。
 あの頑固そうな寝癖を10分で直すのは、不器用な御剣には至難の業だろうと思いながら。


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