僕といる奇跡
「好きです」
御剣検事の入れてくれた紅茶に手を伸ばしながら、ぼくの口からは驚くほど自然に声が出ていた。
だって機嫌良さそうに紅茶を入れる御剣検事はいつになく可愛くて、見ているこちらまで嬉しくなってしまうほどで。 つい。
言ってしまってから、自分の発言に気付いて慌てたってもう遅い。
過ぎた時間は戻らないし、ここは覚悟を決めなければ。
「……そんなに紅茶が好きだったか?」
まぁ、そうくるだろうとは思いましたけど。
「違います。ぼくは、御剣検事が好きだって言ってるんです」
「私か? まぁ、私は完璧な男だからな。その気持ちは分からなくはないぞ。 キミも少しでも私に近づけるように頑張りたまえよ」
鈍い。
仕事をしている時はあんなに鋭い観察眼を発揮するこの人は、人間関係、 特に自分に向けられる好意にはまったくもって無防備だ。
後輩の検事が自分にそういった好意を向けているなんて想像もしないのだろう。
「そういうコトじゃなくて……」
何だ? なんて小首を傾げて見つめてくる。
あぁ、もう。
「好きなんです」
言うのと同時にその唇にキスをした。
そっと離れて様子を窺うと、みるみるうちに御剣検事の顔が赤くなっていった。
* * *
もちろん、御剣検事から良い返事をもらえるなんて自惚れていたわけじゃないさ。
でも、あそこまでボロクソに罵倒されるとは思わなかった。
今だって、思い出しただけで涙が出そうだ。
でも、今、本当に気になっているのはあの非人道的な言葉の数々ではなくて。
「見事に固まってたなぁ……」
目を通しておかなければならない書類を目の前にして、頭に浮かぶのはあの人の顔。
数日前、声を掛けてきた御剣検事を冷たくあしらった時の、衝撃に頭が追い付かないかのような、あの。
自分は傷ついたんだと、アピールしていたつもりだった。
使い勝手の良い犬くらいに思っていただろう相手に無視されて、ぼくの気持ちの何分の一かだけでも思い知れば良いと。
それなのにあんな無防備に、向こうのほうが傷ついたんだという顔をされて、必死で逃げて来たけれど、 時間を追うごとに罪悪感は強くなるばかりで。
それでも一度張った意地をそう簡単には引っ込めることなんてできずに、 もうあの告白の日から一週間も経ってしまっている。
いつまでも遅々として進まない書類の束から目を背けて、ぼくは執務室を出た。
ほんの気分転換に、少し外を歩くだけのつもりだった。
けれど気付けば足は御剣検事の執務室へと向かっていて、そのことに気付いて修正しようとしたとき。
ちょうど向こうの曲がり角からその人が現れた。
なんて偶然。
ぼくはここ一週間の癖で、御剣検事と目を合わせないように歩いた。
視界の端に映るその人は、途中からは歩を止めて、ぼくをまっすぐ見つめている。
表情までは分からないけれど、ここまではっきりとぼくを気にしているのだ。きっとぼくに話しかけたいのだろう。
もう意地を張るのはやめにしようか。でも、彼を好きだって気持ちがぼくの中にある限り、 また同じことになるんじゃないのか。
そんなことを考えているうちにいつの間にか御剣検事の横を通り過ぎていて。
今更立ち止まることも出来なくてそのまま歩き続けた。
つきあたりの角まで来て、曲がるときにちらりと横目で盗み見たその人は、いまだにその場に立ち尽くしていた。
その背中から目を離せなくなって、ぼくはそこでやっと立ち止まった。
まるでそこだけ時間が止まったように、御剣検事は動かなかった。
しばらくしてふいに、御剣検事がこちらを振り返った。
まさかこっちを向くとは思っていなかったから、ぼくはまともに御剣検事と目を合わせてしまう。
彼は少しの間呆然とぼくを見つめていたけど、何かを堪えるように顔を背けて、そのまま歩き出そうとした。
「御剣検事!」
必死に御剣検事に駆け寄りながら、どうか逃げないでと痛切に思う。
つまらない意地なんてもうどうでも良くなってしまった。
だって、ずいぶん遠かったからちゃんと見えたわけじゃないけど。
「泣くぐらいなら、どうしてあんなこと言ったんですか」
御剣検事が逃げ出さないように腕の中に閉じ込めて、後ろからその横顔を窺う。
やっぱり、その瞳は涙の膜で覆われていた。
「泣いてなどいない……それに、あんなこととはなんだ?」
ぼくに顔を見られないように俯いて、そのくせ御剣検事の手はぼくの腕をしっかりと握って離さない。
本当は、縋りつきたいのはぼくのほうなんだけど。
「なんだって……あれだけぼくを扱き下ろしておいて覚えてないんですか?」
「あ、あれはっ……キサマが私をからかうからッ!」
いきなり顔を上げた御剣検事に危うく頭突きを食らいそうになって、ぼくは慌てて顔を逸らせた。
振り返ったその人の必死の形相に目が釘付けになる。
「からかった訳じゃないです。分からなかったんですか?」
「……ニヤニヤと笑っていたではないか」
それはあなたが可愛いからでしょうが。
なんにも分かっていないこの人に、どうしたら伝えられるんだろう。
「じゃあ、もう一回言います」
今度は真顔で。
「あなたが好きです」
「…………」
言えばあの日と同じように真っ赤に染まるその頬が、あの日と同じようにぼくを期待させるんだ。
でもその期待はあの日とは比べ物にならない。
だって、ねぇ、御剣検事。あなた、ぼくを求めてくれていたでしょ?
「ねぇ、御剣検事。どうして泣いてるんですか?」
まるで胸の痛みを堪えるように眉を寄せて。
「泣いてない」
「泣いてますよ」
「しつこいな」
しつこくもしたくなる。
だってこれはチャンスなんだ。きっと、逃しちゃいけない部類の。
「じゃあ、さっき、どうしてぼくを見てたんです?」
「どうしてって、」
「ぼくがそっけないから気になってたんでしょ?」
また俯けてしまった顔を覗き込むようにしながら、問いかける。
やんわりと、逃げ道を無くすように。
ぼくは検事で、そりゃ、目の前にいるこの人にはかなわないかもしれないけど優秀なんだ。
「泣いたのも、同じ理由ですか? ぼくに冷たくされて、悲しかった?」
「調子に乗るな」
いまいましそうに睨みつけてくる御剣検事に、ぼくはにこりと笑いかける。
そのまま彼の手を取って口付けた。
「さっき抱きしめたとき、逃げなかったのはなぜです? 縋るようにぼくの腕を掴んでいたのは? 今のキス、嫌でしたか? あの日、くちびるにしたキスは? 覚えていないなら、今、もう一度してみましょうか?」
「……ッ! もういい!」
ついに我慢出来なくなったのか、ぎゅっと目を閉じてしまった御剣検事を、もう一度ふわりと抱きしめた。
この人からはいい匂いがする。
もっとそれを感じたくて耳もとのあたりに鼻を潜らせると、ビクリと身体が震えたのが分かった。
「好きですよ、御剣検事」
「……さっき、聞いた」
「ぼくが、好きですか?」
「わ、からない……」
「まだ分からない? じゃあ、今度は唇に、キスしてもいいですか?」
かなりの間をあけて、本当に僅かに御剣検事が頭を縦に揺らしたのを確認して、ぼくの顔に抑えられない笑みが浮かぶ。
そっと頬に手を添えてその人の顔を上げさせて、無防備にぎゅっと目を閉じている顔に鼓動が速くなるのを感じた。
ゆっくりと口付けると、まるで誘うように薄く唇を開く。
そんなことを計算じゃなく無意識にやってのけるこの人は、かなりの強敵かもしれない。
でも。
「どうでした?」
なんにも分かっていないこの年上のひとに、ぼくが教えてあげられることだって、きっと少なくないだろう。
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