君がいる幸福
蓋を開けると、爽やかな茶葉の香りが鼻腔をくすぐって、同時にふわりと心が軽くなった。
先日取り寄せたばかりの春摘みダージリン。
とっておきのそれを今日の一杯に選んだのはやはり正解だったようだ。
茶葉を入れたティーポットに湯を注ぎながら、私は口元に笑みを浮かべた。
出来上がった紅茶にそっと口をつける。
途端に広がる風味豊かな香りは、なるほど最高級品の名に相応しいものと言えるのだろう。
「ふ、む。まぁまぁ、といったところか」
文句無しの最高級品を手放しで褒め称えることができないのはなぜだろう。
確かに美味しいと感じるのに、決定的に何かが足りない気がして、私はカップをソーサーに戻した。
あの生意気な後輩検事が、この執務室に姿を現さなくなってだいぶ経つ。
最後に彼がここに来たのは私がひとつ前に担当した事件の公判最終日だったから、もう一週間、 彼とは言葉を交わしていないことになる。
何がいけなかったのだろう。
確かにあの日、私と牙琉検事は言い争いをして別れた。
けれどそんなことは良くある事だったし、あの日に関していえばきっかけは私ではなくあの男のほうだったのだ。
それに、私がどんな辛辣な言葉を投げつけても、次の日には笑いながらこの部屋のドアを開けるのが、 牙琉検事であったはずなのに。
あれから何度か検事局内ですれ違ったことだってあった。
いつもは私を見つけるとうざったいくらいに声を掛けてくるのに、あの日以降、私を見ようともしない。
そんな態度に焦れて、こちらから声を掛けてみたものの、何か御用ですか、と、 これ以上ないほど事務的な口調で返されただけだった。
あの時の目が忘れられない。あんなに冷たい視線を寄越されたことは今まで一度だってなかったのだ。
十近く年下の男の態度が気になって仕事に身が入らないなどということは、 私の自分自身に対する許容範囲を軽く超えている。
せっかくの紅茶を楽しみきれない原因にしたって、おそらくあの検事なのだ。
ほとんど口をつけていない紅茶はもう冷えてしまっているだろう。入れたての香りはもう取り戻せない。
ほんとうに失くしたくないモノは、手遅れになる前に取り戻さなければ。
冷えた赤い液体から目を離して、私は執務室のドアを開いた。
牙琉検事の執務室に向かって歩いていると、目的の人物が向こうからやってくるのが見えた。
彼はひとりだった。話をするのにはちょうどいい。
牙琉検事はまっすぐ前を向いている。
視界には私の姿がきっと映っているだろうに、ちらりともこちらを見ようとはしなかった。
私はこちらに向かって歩いて来る彼を立ち止まって見つめていた。
私の視線に気がついてこちらを見てくれるんじゃないかと期待していた。
けれど彼は私を見ることはなく、すれ違う一瞬まで、見つめていたのは私の方だけだった。
遠ざかって行く足音を聞きながら、私はただ立ち尽くしていた。
おかしいではないか。
まるで犬みたいに尻尾を振って纏わりついてきていたくせに、今ではこちらを見ようともしないなんて。
話もさせてくれないなんて。
そうしているうちに足音はどんどん離れていって、やがて消えた。
すれ違ったあの一瞬、その腕を掴んでいたらどうにかなったのだろうか。
思うだけで、消えた足音を追うことも出来ない。
だって動かないのだ。手も足も、石になったように重い。何故だか目も良く見えないし。
それでも諦めきれずに、無理やり首を捩って足音の消えた方を振り返った。
想像もしていなかった光景に、一瞬息が止まる。
牙琉検事が、廊下の端、曲がり角のところから驚いたような表情で私を見つめていた。
目が合ったのは久しぶりで、しかもあの冷たい視線ではなくて。
私は視界が歪むのを感じて、慌てて顔を背けた。
こんな顔を後輩に晒すなんて我慢できない。
「御剣検事!」
そのままその場を立ち去ろうとした私の背に懐かしい声がぶつかる。
慌てたようなその声に身体が動かなくなって、駆け寄ってくる足音を感覚で必死に追う。
まるで彼が来るのを待っているみたいだと思った。
やがてその足音は私のすぐ背後まできて止まり、動けない私を柔らかな腕が包み込んだ。
「泣くぐらいなら、どうしてあんなこと言ったんですか」
呆れたような、宥めるような口調で言われても何の事だか思い出せない。
その腕を離されるのが怖くて、私はただただ必死にしがみついていた。
end // reset