trianglekiss 1

 隣でステアリングを握るその人はまだ二十二歳になったばかりなのだという。
 俄かには信じ難かった。決して老けているという訳ではないが、美形だけれど険の強い顔立ちと完璧な身のこなしには、人を静かに圧倒する力があった。
 これで自分と同い年だと言うのだから、思い切り緊張している狼は少し自分が情けなくなる。
「どこに行くんだ?」
「荘龍の部屋。あの男の仕事が終わる時間がはっきりしないからな」
 彼の口からよどみなく発せられた、そうりゅう、という言葉を狼は胸のうちで反復する。
 狼の異母兄であり、本来ならば今自分の隣に座っているはずだった人をあらわす言葉。

 昨夜、一週間ぶりの電話で、お前に会わせたい奴がいるからと言った狼の兄は、半ば強引に翌日の約束を取り付け、大学の講義が終わるころに迎えに行くから、と電話を切った。
 そして今日、講義を終えた狼を迎えに来たのは、見慣れたシルバージャガーではなく、見事な真紅のフェラーリだった。
 大学の構内に堂々と停められたそのスポーツカーを、狼は胡散臭いと思いながらちらりと見ただけで、その横を通り過ぎようとしたのだが、 そのド派手な車から、否、車の運転席に座る人物から、「狼士龍!」とフルネームで名前を呼ばれてしまえば足を止めないわけにもいかない。
 かつり、と踵を静かに鳴らしながら車を降りた男は、凛とした灰色の瞳で狼を見た。 吸い込まれそうな、というよりは、色々なものを根こそぎ持って行かれそうな目だと思った。危険だと思うのに、足を踏み入れたくなる立入禁止区域の看板みたいだ。

「荘龍に急な仕事が入ったので、代わりに迎えに来た。御剣、だ」
 その名前には確かに聞き覚えがあった。昨日の電話で兄の口から聞いたものと同じ……兄の、恋人の名前。
 そして言われるがまま車に乗せられて兄の部屋に連れて行かれるまでの間、狼は最初に御剣の瞳を見たときからおさまることのない胸の震えをもてあますことになった。


 異母兄は、狼の父と妾との間に出来た子供だった。
 狼の父はいくつもの子会社をもつグループの総取締(つまり狼はいわゆる御曹司ということになる)だったから、 正妻よりも早く生まれていた妾腹の子が問題にならないわけもなかったのだが。
 その父というのがまた豪気な人柄で、妾の子だろうと正妻の子だろうと、兄だろうと弟だろうと、それ以前にそれが我が子であってもなくても、 とにかく自分が会社を任せられると思った人間に後を継がせるから、社長になりたいなら自分に認められるくらい有能になってみせろと、 そんなことを笑いながら言ってくれたせいで、狼は幼いころから母親に英才教育を施される羽目になった。
 対して愛人であった兄の母は跡取り争いに躍起になるでもなく、兄はすこぶる自由に育っていたように思う。 そして自由に育った兄は、父の会社を継ぐことなどはじめから考えてもいなかったと言うように、大学卒業後、自ら会社を起して取締役社長の席に収まっている。
 どこまでも我が道を行く兄を、羨んだことはあっても疎ましく思うことがなかったのは、他の誰よりもその兄が狼のことを可愛がってくれたからだ。 決してベタベタに甘やかされたわけではないが、必要な時には必ず手を差し出してくれる、優しい人だった。

 普通ではない兄弟だが、それでも良い関係を築いていたから、兄の部屋に来るのだって初めてではない。むしろ良く遊びに来ていたと言える。
 けれどそれ以上に御剣はここに来ているのだろう。彼が片手で取りだしたキーケースには、しっかりとこの部屋の鍵が繋がれていて、 今日たまたま借りたというわけでは無いことが分かった。

「紅茶かコーヒーか緑茶か……牛乳」
 部屋にあがるなりキッチンに向かった御剣が、冷蔵庫を開きながら言う。語尾は上がっていなかったが、きっと自分に対する問いかけなのだろうと思い、 コーヒー、と言おうとすると、お勧めするのは紅茶だ、と被さるように御剣の声が掛かった。
「それ以外は味の保障をしかねる」
 まるで当然のことのような言い方と、内容のギャップに、狼は一瞬ついていけなくなるが、また一瞬あとには噴出しそうになった。
 コーヒーは、まぁ分かる。緑茶も、もしかしたらとんでもなく薄いのや濃いのが出来上がるのかもしれない。 けど、牛乳は……どうやったって牛乳だろう。まさか雌牛の選別からするわけでもあるまいに。
 堪え切れずに、くく、と声を漏らすように笑ってしまったのは彼にも分かったようで、 ちらと覗えば眉間にいくつもヒビを入れた御剣から、笑うな、と小さな声が聞こえてきた。
「わりぃ……馬鹿にしたわけじゃねぇんだぜ」
「……問答無用で、紅茶だ」
 そう言って、フイと狼に背を向けた御剣の仕草が、さっきまでの彼の印象とはかけ離れて子供っぽくて、狼は一気に緊張から解放された。

 床に無造作に置いてあるクッションの上に腰を下ろしながら、狼は首をぐるりと動かして部屋を見回す。 ローテーブルに大きめの二人掛けソファ、液晶テレビとオーディオラック。 前に来た時となにも変わっていない、もう見慣れた部屋。主は忙しい人だろうに、さほど散らかっていない。 同じく独り暮らしの狼の部屋などは、たまの大掃除直後以外は目も当てられぬ惨状だというのに、と考えてから、ひとつの可能性に気付く。
「なぁ、アンタがこの部屋掃除したりしてんの?」
 キッチンから戻ってきた御剣は狼に紅茶を手渡しながら、自分もソファに腰掛けると、狼を一瞥してから、いや、と言う。
「掃除とか、料理とか洗濯とか、そういうことは荘龍がしている」
「へぇ……。兄貴もたいがい忙しいヤツだと思うけど、アンタも随分忙しいのか?」
「仕事はしていない。学生でもない。普段はこの部屋で、日がな一日のんびり過ごしている」
 思いもしなかった返答に、狼は言葉に詰まる。
 胡散臭い、とそう思ったのが顔に出てしまったのか、狼の表情を見て御剣がおかしそうに笑った。
「私は拾われたネコだから。飼い主が帰ってきてエサをくれるのを、ただ待っていればいい。荘龍がそう言ったのだ」
 一瞬でがらりと空気を変えた御剣が、少し目を細めて言う。
 薄く笑んだ唇と艶めいた瞳。
 故意にやっているのかそうじゃないのか、どちらにしてもその流し目は、まるで凶器だ。

「アンタ、マジで危ねぇヤツだな」
 狼の言葉に御剣がほんの少し首を傾げる。そんな僅かな仕草だけで、まるで身体を流れる血液全てが沸騰したように熱くなった。
 どこか仄暗い笑みに、飲み込まれそうになる。

 手を伸ばしてその頬に触れても、御剣は微動だにしなかった。
 分かっている。目の前の美しい人は兄のもの。兄が触れて、兄が愛して、兄を愛している。
 これ以上、踏み込んではいけない。

「ロウ」

 呼ぶ声はまるで、どうするのだと問いかけているようだ。
 御剣の頬に手を伸ばしたまま、止まってしまった狼の時間を動かすための、呼び水。それだけのものが甘く響くなんて、きっと気のせいだ。

「荘龍の、言っていた通りだな」
 狼の手を振り払うでもなく、ただ目を細めて御剣が言う。そんな少しの表情の変化から目が離せなくて、じっと見つめてしまう。
「……なにが、だよ」
「可愛い弟だと。……確かに可愛いな、キミは」
 あの男が、自慢するのも納得だ、と。ゆっくりと話す御剣の声がまるで耳から全身に広がるように反響する。
 誘うような声音。色を含んだ瞳。楽しそうに歪められた唇。全てが気のせいだと言うなら、自分はもうおかしくなっているのかもしれない。

「士龍」
 御剣が呼ぶのと同時に、頬に触れていた手を頭の後ろに回して引き寄せ、口付けた。柔らかい感触を楽しむように舌で湿らせて甘く噛み、 それ以上は深くせずに顔を離せば、御剣はかすかに笑ったようだった。
「私は、荘龍の猫だぞ?」
「……知ってる」
 最初から、分かっているのだそんなことは。
 けれどいざ御剣を目の前にしてしまえば、『兄貴の恋人』などというちゃちな防波堤は、隕石でも落ちたかのような大津波の前に何の役にも立たなかった。
 兄のものだと分かっていて、さらにはふたりの間には自分など割り込めないだろうということも、どこかで分かっていて。 それでも、ただ、目の前の人が欲しかった。御剣以外にこの気持ちの向かうべきところなど何処にもなく、止めることも不可能だと思えた。

「嫌なら、本気で抵抗しろよ。オレをぶん殴るくらいじゃねぇと、やめねぇぜ」
 本気だと滲ませるように、その灰色の瞳を見据えて言っても、御剣の視線が逸らされることはなかった。
「猫が飼い主以外に頭を撫でられることも、たまにはあるだろう」
 妖しく、どこか仄暗い、深い深い海の底のような瞳で御剣が笑う。人が堕ちる瞬間っていうのは、きっとこういう時なんだろう。



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2010.09.13 up