栗花落 2
梅雨入りは明日だと言っていた今朝の天気予報は嘘になってしまったらしい。
傘を買うか、いっそタクシーに乗ってしまおうか、と、駅の出口で立ち尽くしながら思案していた御剣に、機嫌の良さそうな男の声が掛けられた。
見れば、闇に溶け込む漆黒の傘に、夜目にも鮮やかな赤い三本ラインのゴーグル。
ちぐはぐな男は御剣に向かってその傘を差し出しながら、おかえり、と微笑んだ。
「狭い」
端的な文句を口にした御剣に、返ってくるのは愉快そうに喉を鳴らす音のみ。
ますます不愉快になった御剣は、今は至近距離にある男の顔を思い切り睨みつけた。
「濡れて帰るよりいいだろう?」
「どうして傘が一本なんだ? 迎えに来るなら普通はもう一本持ってくるだろう」
「あぁ、ついうっかり、な」
などとのたまう男の顔には相変わらず笑みが浮かんでいる。
うっかりなどと言っているが、いつもこの男が使っている傘ではなく、ひとまわり大きい傘を持ってきているあたりそれも疑わしいものだ。
それが分かっても強く言えないのは、男が差している傘が御剣の頭上に多めに傾けられている事実のせいであったり、何が嬉しいのだか先程からずっと口元に笑みを湛えている男の顔のせいであったりして、とにかく御剣にとってはおもしろくない状況だった。
「不愉快だ」
「クッ……まぁ、そう言うなよ」
それでもまだぶつぶつと文句を言いながら、いつもと同じ道をふたりで歩いた。
金曜日の門限は午後九時。
そんなことを隣にいる男に決められたのは、一緒に暮らし始めてすぐだった。
理由は御剣が働きすぎだからだそうだ。
最初こそ拒否したのだけれど、週に一日くらい俺の言うことを聞いてくれる日があってもいいんじゃねぇか、と、そんな風に言われて切り捨てられないくらいには、この男は御剣にとって特別であるらしかった。
後から気付いたことなのだが、金曜の午後九時からその後の土日を丸々男と過ごす事が当たり前になっている状態では、すでに週一日とは言えない。気付いたからといって今更どうしようもない事だった。
そんなことは最初から分かっていたに違いない男に、御剣が出来ることと言えば毎週門限ギリギリまで帰らないことくらいで。
だがそのせいで今日のようなことになるならそれさえも逆効果だ。
そんなことをつらつらと考えていた御剣の鼻腔をかすめる甘い香り。
条件反射のように顔をあげれば、金曜日だけ目にするこじんまりとしたケーキ屋が近づいてくるところだった。
いつもの癖でついそちらに視線を遣ってしまってから、しまった、と思う。
案の定、人の些細な行動も見逃さない鋭い洞察力をもつ男は、御剣とケーキ屋を交互に見比べると、ニヤリと笑った。
2009.6.17 up