trianglekiss 3
御剣はもう服をしっかりと着込んでいたし、ソファのシミはまだ見られていないはず。ニオイも、多分大丈夫……だと思う。なのに。
「ヤりやがったな」
リビングにいた狼と御剣をひと目見ただけで、狼の兄――神乃木荘龍はそう言った。
身体を強張らせる狼とは正反対に、「ほらな、だから言っただろう」などと言う御剣は自分の正しさが証明されたことが嬉しいのか、笑みさえ浮かべている。 一体こいつはどういう神経をしてるんだと疑いたくなるが、今はそれどころじゃない。
兄と御剣は付き合ってもう五年近くになるという。昨日の電話で、紹介したい人がいるからと、御剣のことを話した兄の声はとても優しい響きで、電話越しの声だけでも、 兄にとって御剣がどれだけ大切な人なのかが伝わってきたというのに。そんな相手と弟が、なんて、自分でやってしまったことながらあまりにも兄が可哀想だ。
殴られても、例え兄弟の縁を切られても、文句は言えない。
「兄貴、悪かっ「怜侍、オマエなぁ……人の弟になにしてんだ」
全てを覚悟して頭を下げようとした狼ではなく、御剣に叱るような声を向ける兄に、狼は面食らった。
御剣はさっきまでのしてやったりな笑顔から一転、眉間に皺を寄せた不機嫌モードで神乃木を睨んでいる。
「私ばかり悪いみたいに言うな」
「そ、そうだぜ兄貴。悪いのはオレで、御剣は……」
そこで言葉を止めて少し考える。嫌がられてはいないし、抵抗もされていないし、むしろノリノリというか、誘いまくりというか……とにかく兄に話せるような 貞淑な態度ではまったくなかった。
「ホラ見ろ。士龍が困ってるじゃねぇか」
口籠った狼を見かねて、というよりは最初からそうなることが分かっていたかのように、神乃木が言う。その言葉と同時に額を軽く小突かれて、 御剣はまるで拗ねたようにソファの上にあったクッションを抱きしめてそこに顔を埋めてしまった。
それまで狼が見たこともない反応に、可愛いなと思うのと同時に少しだけ胸が痛い。
「そんなに弟が好きなら、私なんか追い出して弟と寝ればいいだろう」
クッションに押し付けられた唇から、くぐもった声で耳を疑いたくなるような言葉が漏れてきた。思わず「へ?」なんていう間抜けな声が狼の口からこぼれ落ちる。
「あなたの言うとおり、それはそれは可愛かったぞ。どうしたらいいかわからなくて真っ白になってたり、私の言葉に傷ついて乱暴になったり、我慢してる顔とか、 それでも早かったりとか……」
「あぁ、分かったから、もうそれくらいにしてやってくれ。士龍が立ち直れなくなる」
溜息をつきながら、ソファでクッションにうまっている御剣の唯一見えている後頭部に手を伸ばして、神乃木は狼を一瞥した。
自分でも、首まで真っ赤になっていると分かる。これ以上の辱めなんてないと思えるくらい、酷い仕打ちだ。それでも、神乃木の言葉に顔を上げた御剣の目元が 赤くなっているのをいるのを見てしまえば、自分の恥ずかしさなどどうでも良くなってしまう。泣きそうなのか、怒りでなのかはわからないが、 感情が昂ぶっているのは分かる。
「そうやっていつも弟のことばかりではないか。弟が来るたびに私は部屋を追い出されるし……!」
「なんだ、妬いてたのか」
「妬いたら悪いのか!」
「クッ……悪くねぇ、な」
御剣の恨みがましい視線を受け止めながらも、神乃木は楽しそうにその頬に手を伸ばす。宥めるように瞼にキスを落として、御剣の小さな頭を腕の中にしまいこんだ。
さっきまでの険悪なムードはどこへやら、ふたりを取り巻く甘やかな空気に、狼はいたたまれなくなる。それと同時に、分かってしまった。 自分は、痴話喧嘩の道具にされたのだ。
「オレ、帰るわ」
ジャケットを羽織り、横目でふたりを確認する。そうして現実を見てしまえば、ほんの少し前に自分の腕の中にいた御剣の記憶など簡単に薄れてゆくのに、 愛しさだけは変わることなく狼の胸にあって、知らず唇を噛んだ。そんな想いを押しやるように一歩を踏み出そうとしたら。
「まぁ待て」
神乃木の声がそれを止めた。
「士龍、おまえ、怜侍に惚れただろう」
ふたりくっついた状態で言われて、思わず舌打ちしそうになる。こんなに性格の悪い奴だとは思っていなかった。 イラつきを押し込めるためには黙るしかなくて、結果ふたりを見る視線は強くなる。間男の逆ギレなんてカッコ悪いが、怒ってもいい場面だとは思うのだ。 ふたりそろって人の恋心を弄びやがって。
「だから紹介したくなかったんだ」
狼の視線に怯むこともなく、神乃木はまるで何かを思い出したかのような、柔らかい笑みを浮かべた。反射的に憐れまれていると感じたのは、 確かに被害妄想じみていたかもしれないが、この状況なら誰だってそうなるんじゃないか。
「ハッ! オレがフラれるのが可哀想だって?」
「そうじゃねぇ。怜侍がオマエを気に入るのがわかってたからさ」
「あぁ?」
慰めにしては変な言葉だ。だいたい、目の前でイチャつきながらそんなことを言われても、慰めになどならない。
「だろ? 怜侍」
「いくら私でも、好きでもないヤツに抱かせたりはしないな」
少しも考える素振りを見せず、御剣は狼をまっすぐに見てそれはそれは淡白な態度だ。けれどその瞳は最初に狼を捕らえたそれで、反論しようと開いた唇は 何の音も発さないまままた閉じられる。
「ほら、な」
「…………」
自分の予想が当たっていたことに満足したような声音。そういえばついさっき御剣も同じような楽しげな声をしていた。似たもの同士というかなんというか…… こいつらお互いのこと好きすぎだろう、と素直に認めて、どうやら自分は巻き込まれるらしいと今度はあまり認めたくない現実に一度目を閉じる。
「オレたちはふたりして、士龍に嫉妬してたわけだ」
「あなたが弟のことを好きすぎるのが悪い」
さっきまでは確かに怒りと共に発せられていたセリフが、何故か今は楽しげに、じゃれるような響きで御剣のくちびるにのる。何も状況は変わってないと思うのは 自分だけなのだろうかと、狼は頭を抱えたくなる。なんて迷惑な奴らだ。
「付き合ってらんねぇよ。じゃあな」
「だから待てって」
「今度はなんなんだよ。めでたく仲直りも出来たんだろ? もういいだろうが」
この期に及んで引き留めようとする兄に、狼はイラつきを隠さない。これ以上見ていたくないという気持ちが何故わからないのか。
「良くないぞ、士龍。こっちに来たまえ」
今度は御剣だ。兄よりも逆らいづらい声に、狼は歩みだそうとしていた足を止めてしまうが、言われたとおりにすることも出来なくて固まる。
「私と荘龍は仲が良いだろう。で、荘龍は弟が大好きなのだ。なら、私と士龍だって仲良くならなければ、荘龍がずるいだろう」
「…………」
宇宙人か、こいつは。
言っている意味は、なんとなく分かる。けれどそんな幼稚園児のような発想、目の前の怜悧な印象の男のどこから出てくるんだ? 同い年とは思えないというのが第一印象だっただけに、アンバランスさに眩暈がする。
一向にその場を動こうとしない狼に焦れたのか、神乃木の腕の中を抜け出して御剣が狼の手を掴んだ。
「私と仲良くするのは嫌か?」
今度は大人バージョンだ。妖しく光らせた瞳は『わかっている』色をしている。もう、どうしようもない。
「ああぁ、くそ。いったいどういう状況だよこれは」
大きめとはいえ二人掛けのソファに成人の男が三人で座っている、それだけでも暑苦しいのに、何故か真ん中は自分で、両側のふたりはぎゅうぎゅうと身体を寄せてくる。
「スキンシップだよなァ」
「手っ取り早く仲良くなるにはくっつくのがいいのだ」
「なんだよそれ犬猫じゃあるまいし」
ソファの上で少しでも体勢を立て直そうとしてゴソゴソ動いている狼の胸元に顔を擦り寄せるようにして、御剣がすんすんと鼻を鳴らした。 この匂い落ち着くな、なんてまるで本当の猫のようなことを言うものだから、うかつに動けなくなった。懐かれて、嬉しくないわけではないのだ。
「だいたい、兄貴はこんなんでいいのかよ」
恋人が他の人間にすり寄っているのなんて、普通は見たい光景ではないだろう。兄が普通でないのはもう充分に知っているのだから、これは単なる悪あがきだ。 この非常識な関係に巻き込まれるのをなんとか防ぐための。
「いいんじゃねぇか。オレはお前が可愛いからお前の恋は叶えてやりてぇが、怜侍を手離す気はねぇからな。 怜侍の言うとおり『三人仲良く』できるなら、それが一番良いんだろうぜ」
「あぁ、そう……」
このはた迷惑なふたりを相手に、いったいどうすればいいのか。
常識的な世界がぐんと遠ざかったのを感じて、ぐったりと背もたれに身体を預けた狼の頭を、大きな手がかき混ぜるように撫でた。 兄にそうされるのは嫌いじゃなかった。それこそ物心ついた頃からずっと馴染んだ優しいあたたかさ。それに胸元に摺り寄る新たなぬくもり。
狼は一度強く目を閉じて、為す術もなく一方的に与えられた居場所を確かめてみる。
目を開いて、溜息をひとつ。自分の中で出た答えが気恥ずかしくて、 悔し紛れになにか憎まれ口でも叩いてやろうかと思ったのに、両側から笑顔で覗きこまれて失敗した。
あぁ……悪くない。